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――そして今日も、退屈な一日が始まった。


自由の利かない体をベッドの上に転がしている日々。窓の外を眺めた。桃色の花弁が街中に色付いていたときが懐かしい。気が付けば外界は若々しい青葉の緑が増え、百花繚乱に咲き誇る花々は次第にその領域を狭めていた。


こうしている間にも、時の流れは留まることを知らない。取り残された白い世界から、指をくわえてその様を黙ってみていることしか出来ないことが悔しかった。


まるで塔の頂上の一室から下界を俯瞰するお姫様のように、悲劇の物語は意思の介在を許さない。それは初めから定められた運命なのだ。嘆いても仕方が無い。一体誰に抗議をすれば良いの―か。神か、悪魔か。それとも運命?


嘆いたって逃れようの無い定めならば、無意味な抵抗に意味なんてないじゃないか。ただ黙って見ていることしかできないなら、それなりの生活で満足するべきなのだ。


ベッドサイドに置かれた雑誌を手に取った。この行為は今日一日で一体何度目なのか。記憶にある限りで七回。無意識に手を伸ばした回数ならきっと一つ桁を増やしているだろう。表紙は既に皺がより、よれよれになっている。買ったのは数日前だが、これだけ何度も手に取っていれば内容なんて見なくても分かる。


しかもそれはファッション雑誌。ベッドの脇には病院の売店で購入した漫画も山を成している。そろそろベッドの高さに届くかというほどを、ここ数週間で買い漁った。大して興味が無くとも端から端まで読み返す。それを何度も何度も繰り返すことくらいしか時間を使う手段が無いのだから仕方が無い。


それでも暇を持て余している俺を見かねて、春夏さんが持ってきた大量の本。実は反対側のベッドサイドに既に山を形成しているのだが、その内の一冊がこの雑誌だった。


気に入った服を見つけては折り返し、新作をチェック。……普段そんなに服装に気を使っているわけじゃない。寧ろ着れるのならば何でも良いと思っているくらいなのだが、穴が開くほど眺めてしまう。


こんなことをしても意味が無いことは分かっている。まずこんな足では買い物にいけない。仮に買ってきたとしても、入院している間はこの無味乾燥な患者服を奴隷のように着る運命だし、その後退院を迎えたとしても春の服はすぐに着られなくなってしまう。少なくとも来年の春になるまでは箪笥の奥底に仕舞い込まれることだろう。


同様にタウン情報誌も混じっていたけれど、出かけられないから春の名所やお薦めスポット、期間限定商品の特集なんかを眺めていても虚しいだけだ。せいぜい脳内で新しい服を身に纏い、自由気ままに散策する自分を脳内妄想で補完するくらい。


パラパラと雑誌の項を捲るも、既に見飽きた内容が変わっている訳も無い。ため息を吐きながら再度テーブルの上に放り投げた。


ちらりと残りの本の山に目を走らせる。それは雑誌ではなく、ハードカバーや文庫本の束だ。春夏さんが家にあった本を持ってきてくれたのだが、タイトルに目を走らせるだけであまり手に取る気にならない。


芥川、漱石、志賀直哉。何だか誰も彼もが教科書に出てくるような著者名ばかりで気が乗らないのだ。勿論、こうして入院している間に学校の勉強が進んでしまう訳だから、数学や英語なんかは腐るほど余っている時間を使って自学を行っているが、それはあくまで危機感から訪れる勉強欲求であって、こんな状態であっても好んでしたいものじゃない。


だからこういう硬い内容は中々手に取る気にならないのだ。初めはそれでも物は試しにと手にとって見た。教科書にのっている類の作品も、よく考えれば文庫でベストセラーになる位に売れる作品も数多い。もしかしたら心理的に敬遠しているだけであって、手を伸ばしてみれば意外に面白いかもしれない、と思ったのだが、そんな想いは結局希望的な感傷に過ぎなかったわけだ。


第一、手に取った作品が悪いのかもしれない。境遇こそ違えど入院している主人公がねずみだの石の流れ落ちる様から偶然が生死を支配するだとか感じたり、次に読んだ作品なんかは遺書の話から始まったかと思えば三角関係の末に友人が死んでしまったりと、読んでいて心が沈んでしまうような内容ばかりだった。


そういえば文豪の死に方は大抵碌なものじゃないと聞いたことがある。入水自殺、切腹、服毒、ガス自殺。果てには爆死なんてのもあるらしい。そんな人が書く作品なんだから、読んでいて心躍るような展開なんて期待してはいけないのだろう。


どうせ読むならミステリーとかファンタジーとか、そういう娯楽として楽しめる作品がいいけれど、好意で持ってきてくれた春夏さんに突き返す訳にも行かない。


今度遠まわしに頼んでみようかな、と考えながら時計に目を遣った。そろそろ十二時だ。この頃はテレビもあまり見なくなった。バラエティ番組も面白いけれど、高い金を支払ってまで見る価値は無いんじゃないかと思ったからだ。


テレビはカードを差し込むと視聴できる。イヤホンを差し込んで音漏れがしないようにするのがマナーだけれど、生憎気に掛ける相手が居ない自分一人の部屋だ。大音量でテレビを視聴しても、文句を言われることは無いだろう。


ただ、時間制で料金を取られていくのだからたまったものじゃない。ずっとテレビをつけていると馬鹿にならない料金になる。


だったら、こうして暇でも見ないほうが良いような気がする。幸い、いくら暇でも死にはしないだろうから。……ただ、さすがに死にそうになるくらい暇であることは確かだ。これがずっと続いたならば、もしかしたら本当に死んでしまう可能性もあるかもしれない。精神的に限界が訪れて。


それこそ、文豪を馬鹿に出来ない死に方かもしれないな。暇死。もしかしたら歴史に残るかもしれない。暇で死にそうだ、なんて比喩があるくらいだから、もしかしたら先達が居るのかもしれないけれど。


ただ、本当に暇になると行き着くところは考えることだ。思考は最大の暇つぶし。哲学なんて大層なものが誕生したのも、人々の心に暇っていう概念ができたから、とテレビで言っていたくらいだし。


勿論俺は哲学家なんて大層なものじゃないし、成りたいとも思わない。そもそもがくだらないことしか考えていないのだから。


例えば、雑誌の広告を見てファーストフードが食べたいなー、とか台所の上にカップラーメンが残ってたな、とか。……本当に自分の欲求に素直な頭だ。入院生活最大の懸案事項は食事にあるといっても過言ではない。


別に糖尿病患者ではないんだから食事くらい自由にさせて欲しいと思うが、病院は健康第一の減塩食しか支給しない。本当、ここまで徹底することも無いと思うけれど。こんな状態が続いたら精神的に病気になってしまう。そう、我慢は良くないと思う。


そんな愚痴を零したところで何かが改善される訳じゃない。


結局、そんな身の回りの事柄でさえ変えることができないんだ。そんな俺が運命なんて変えられるわけが無いのさ。


この窓の外の景色だって、俺が念じたからってそう変わるものじゃない。初めて屋上から景観を眺めたときは感動したけれど、あのときの感動は何処へやら、今となってはつまらない景色の仲間入りをしている。


はぁ、と今日二度目のため息を吐いた。ため息を吐くのはつまらないと感じている証拠。だからといってそうかんたんに面白いことはやってこない。自分から探しに行くことも出来ないんだから、こうして芋虫みたいにベッドの上で寝転がることしか出来ない。


あと一時間もすれば午後の面会時間になる。もしかしたら春夏さんが来てくれるかもしれない。それなら今日は久しぶりに屋上に連れて行ってもらおうか。


自分で車椅子を進められるようにはなったけれど、残念ながら自力で車椅子に乗り込むこともベッドに戻ることも出来ない。もうしばらくすればある程度癒着もすんで、その位の動きは許可されるらしい。だからその自由を得る為にも、今は無茶しないようにと医者から仰せ付かっている。


物理的には可能でも、今楽しみたいがために無理をして入院が長引いては元も子もない。


景色には飽きたけれど、外の空気を吸える屋上は好きだ。時の流れを体感できる唯一の場所だし、なにより一番現実を体感できる場所だ。


……そういえば。初めて屋上に行ったときに会った少女。あれ以来会っていないけれど、不思議とその名前は覚えていた。直接自己紹介されたわけじゃないし、ましてや友達になった覚えも無い。それでも、あの印象的な口調と強気な気性はそうそう忘れられるものじゃない。


「確か、郁乃だよな」


実を言えば、くだらない思考遊びの中で、郁乃が登場したことは度々ある。なんだかどこかで見たような、というよりも会った事があるような気がするのだが、残念なことに思い出すことが出来ない。


それに加えて、何故か郁乃と普通に会話を交わせていたことが不思議で仕方ない。あの時は一番異性への不信感が高かった時期なのに、全く違和感無く話しが出来た。


どうしてなのかが知りたかった。もしもその明確な理由があるのならば、きとタマ姉とも普通に接することが出来るに違いない。


そして何より、学校に何の不安も無く戻ることが出来る。


……そう。学校は『同年代の異性』の巣窟。一生のうちでもこれほど多くの同年代の異性と生活を共にする機会なんてそう無いだろう。今の俺にとっては最悪なことに、だ。


仮にこの怪我が完治したとしよう。それでも、俺が心に傷を負っている限りは学校生活に復帰することは容易ではない。ただでさえ事件現場として心的不安が大きい場所な事に加えて、最大のウィークポイントを抉るように的確についている場所なのだから。


そう考えると、この入院期間は一種のタイムリミットなのかもしれない。この間にある程度自分の心に折り合いをつけ、影に勝たなければ学校に復帰することは出来ない。もしかしたら、タマ姉が毎日病室に来るのにはそんな理由も含まれているのかもしれないな。


「―――また、会いたいな」


自然と、口から言葉が零れていた。


もしかしたら彼女の存在が大きな鍵になるかもしれない。俺の心の殻を突き破って、影を追い払う為の光を握っているかもしれない。


そんな打算的な感情を含めてだけど、郁乃と会うことを心から望んでいることも間違いない。もしかしたら今日偶然出会う、何てことも在り得る。まさかそんなことは無いだろうとは思うけれど、希望を持った心はそんな期待に高鳴っていた。


……口元が綻んでいたことにも気がつかないほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






運命の悪戯という言葉は、思った以上に身近に存在するものなのかもしれない。


そう、運命なんてものは本当に分からないものだ。思い通りに行かないかと思えば、拍子抜けしてしまうくらいあっさりと願いが実現してしまうなんてこともある。呪っていた運命に感謝をしなければいけないかもしれない。本当に都合の良い考えではあるけれど。


……ただ。その状況を与えられたとしても、物事が予測通りにすすむとは限らない。あれだけ期待していた状況でも、直面すればそんな想いなんて紙くずよりも簡単に吹き飛んでしまうものらしい。


「全く、本当に最低ね」


そう、例えばこんな言い草を聞いては腹立たしいことこの上ないだろう? それも出会い頭の第一声が、だ。


「そんなことを言われるようなことをした覚えはないけどな」


負けじと言葉上平静に返してみる。感情は押し殺していると思うけれど、言っていることは喧嘩腰と取られても仕方が無い。


「あたしの空間に入り込んだでしょ。アンタが来なかったらここは私だけの場所だったの」


「オマエの所有地じゃないんだから勝手だろ」


「大体、まだ入院してたの? とっとと出て行きなさい。アンタの面倒みてる分だけ、看護婦さんが負担でしょ」


「見ての通り重症だろ? オマエこそとっとと家に帰ればいいじゃないか」


何て、低次元な言争いなんだ。心のなかでそんな口げんかに乗っている自分に呆れてしまう。頭を抱えそうな感情とは裏腹に、ギプスを叩いて重症ぶりをアピールしてしまう。


俺たち二人を除いて誰も居ない屋上での罵り合い。車椅子の上だからかもしれないが、もし自由に動き回れるならば蹴りの一発でも入れられているかもしれない。そんな敵意さえ感じられる、最悪の邂逅だった。


初めはラッキーだった。期待通りに春夏さんが面会時間と同時に現れたのだ。有無を言わさず手伝って貰って、院内を車椅子で散歩した。手始めに病院の売店で漫画雑誌と何個かの菓子類を購入する。


売店で売っているのだから問題は無いはずなのだが、ベッドサイドに山のようにお菓子が積まれていると、何故か看護婦さんに冷たく突き刺すような視線を感じる。もしかしたら気のせいかもしれないが、点滴の際など実際に首のあたりがムズムズとすることさえあるのだから。


そんなこんなで車椅子を押して貰って、最後は希望通り屋上に連れて行ってもらった。


「それじゃあしばらくしたら戻ってくるから。タカくん、風邪引かないようにね」


「はい。上に羽織ってますから大丈夫です」


春夏さんは俺に自由な時間をくれた。外に出ることがどれだけ嬉しいことなのか、春夏さんも傍目にみていて分かるのだろう。そんな何気ない心遣いが嬉しかった。金属製のドアが閉じられるてからじっくりと周囲を見回すと、屋上に居るのは俺は一人。


この広い世界が自分だけのものになった気がして、爽快感が体を駆け巡った。春風が心地良い。外気が暖かい為か、風邪に冷たさを感じなく、心地良い。


ふと視線を転じれば、以前郁乃が居た給水塔が目に入る。そういえばその裏手からは街を眺めたことが無い。良い機会だと思い、最近ではすっかり手馴れた手つきで裏手に回り、


―――そこに、彼女が居た、という訳だ。


「アンタと違って繊細な体なのよ。怪我してるだけなら家で大人しく寝てればいいのに」


「繊細な体に外の風は毒じゃないのか? 病室のベッドで横になっていればいいんだ」


視線が交錯する。もしも可視的なものならば、二人の間に火花が飛び散っているに違いない。


無意味な小競り合いが沈黙の中で繰り広げられる。それこそどれだけ時間を使っているのか分からないが、気分転換できた屋上で気分を害しては世話が無い。


生憎と無駄に出来るほど時間に余裕があるわけでもないし、年上としてこちらから折れるべきなのかもしれない。


疲れを感じながら視線を向かい合っていた郁乃から外して景色を眺めた。こちらは病室の窓からは見えない景観。それに窓からでは端にしか見えなかった堤防沿いの並木道が綺麗に見える。


残念ながら一番の見ごろだった桜は既に散り、青葉しか残っていないがそれでも十分に心を和ませるに足りるものだ。


「……ここ、あたしの場所なんだけど」


「別にいいだろ。減るもんじゃないんだし」


「……勝手にすればいいでしょ」


フン、と鼻を鳴らして顔を反らした。俺の顔が視界に入らないようにせめてもの抵抗だろうか。そもそもどうしてこんなにまで敵意剥き出しの対応をされるのか未だに分からない。安っぽい挑発にのってしまう自分も自分で反省するべきだと思うけれど、頭を下げる気にはならないな。


しばし無言のまま時間が流れた。


お互い同じ空間に居ることは分かっているのに避けている。あたかもお互いがその場に存在していないかのごとく。


初めは今までとは違う眺めを楽しんでいられたのだが、それがひとしきり済んでしまえば気まずい空気が流れるだけで、そんな空気に慣れていない俺はとまどってしまう。


今までは、それこそこのみや雄二、タマ姉と一緒に毎日を過ごしていたわけで、逆に何も会話をしていない時間のほうが珍しかったのだ。つまりこんな沈黙は初めてで、ただでさえ会話が少ない生活に不満を覚えていたのだから、迷った挙句に会話になりそうな話題を振ってしまった。


別に何か考えていた訳でもなくて、単に口をついてでた言葉が始まり。


「あのさ、いつもここに来てるのか?」


「……別に、関係ないでしょ」


冷たく言い放った後、我慢し難いという様子で若干顔を歪める。


「―――そう、前にアンタに会ってから全然来なかったの。今日は気分が向いてきてみたらコレ」


「悪かったな」


「本当に最悪よ。何でアンタと顔を合わせなきゃいけないの」


「それは俺も同じだ。ここに来たの、今日が二回目だし」


そう言うと、少し驚いたような顔をしたあと郁乃は正面を向いて黙り込んだ。もしかしたら、言い争い以外にきちんとした会話が成立したのはこれが初めてかもしれない。


……尤も、今の会話もまともな会話とは決して言えない類のものだったけれど。


「ここの景色、好きなのか?」


こんどは返事までにやや間があった。一瞬の逡巡のようなものが窺えたが、その色もたちまち掻き消えてしまった。結局残るのはいつものように眉を吊り上げた表情。


「―――別に。あんまり見えないし」


「見えない?」


「視力が良くないの。元々こんなだったわけじゃないけど。……って、なんでアンタにこんな話しないといけないのよ」


一層不機嫌そうな顔になる。


そういえば、郁乃は俺みたく怪我をしている訳じゃない。線が細いことからも、きっと何かの病気で入院生活を余儀なくされているのだろう。視力が悪くなった、というのもそれに関係があるのかもしれない。


とはいえそんな踏み込んだ話しを、会って二回目、しかもあまり良い印象を抱かれていない相手なんかにするはずもないし、第一体のことなんて一番のプライバシーだ。軽々しく聴くことは出来ない。


「……視力って、どれくらい悪いんだ?」


「全然。その顔もはっきりとは見えない」


「何だ、じゃあここに居ても景色なんて見えないんじゃないか」


「別に景色を眺めに来てるわけじゃないから」


この場所は一番見晴らしが良い場所だから、てっきり郁乃は好きでこの場所にいるのかと思ったのだが。そんなことは関係なかったらしい。いつもここに居るのは、人に見られない静かな場所だからだろうか。


しかし、それでは郁乃は前回ここに居たときも桜並木を見ていた訳ではなかったのかもしれない。とても綺麗だったのだが、桜が咲いていたことにすら気がついていないかもしれないな。視力が悪いんじゃ花が咲いていても色しか分からないだろうし、残念なことにここから見える家の屋根は赤系統の色がよく使われている。


もったいない、とは思うが郁乃だって好きでそうなった訳じゃないだろうし、慰めの言葉なんて論外だろう。この短いやり取りの中でも大体性格は掴めている。


仮に同情するようなことを口にすれば最後、きっと郁乃は二度と口を開かないのではないだろうか。何も分からない相手に、勝手に可哀想と思われるのだから、郁乃のようにプライドの高そうな人間にそれはタブーだろう。


「そうか」


だから。そんな簡単な返事しか返すことができない。それでもその選択は賢明だったようで、少なくとも郁乃が機嫌を損ねることは無かった。


ふと、腕時計に目をやると、屋上に来てからそろそろ三十分が過ぎようとしている。きっと春夏さんが迎えに来る頃だろう。


「―――それじゃ、先に帰るな」


「とっとと帰れ」


まただ。この口の悪さには辟易とするしかない。


「またな、郁乃」


「うるさい『バカ明』」


それっきり郁乃から言葉が発せられることは無かった。


ただ。


またな、という言葉に応酬が無かった。少なくとも二度と会いたくない、ということではないようだ。そんな些細なやりとりが嬉しくて、頬が緩んでしまう。


もしかしたら、この瞬間にも俺の心は色づき始めているもかもしれない。

 


―――今日の収穫。


 

―――どうやら、郁乃とは話が出来るみたいだ。

 


俺は車椅子を押して進む。


今は、ただ真っ直ぐ前を見据えて。