―――光の中に消えていく背中。
 
 
 わたしは必死に追いかけて、その姿を見失わないように駆け出す。
 
 
 行かないで、と叫ぼうとして、声が出ないことに気が付いた。
 
 
 喉を押さえて、頑張って声を振り絞るけれど、どう頑張っても声が出ない。
 
 
 そうしている間にも、その大きな背中は遠ざかっていく。
 
 
 待ってください、置いていかないで!
 
 
 光の中に消えゆくその姿を、手を伸ばして掴もうと空を掻き―――。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 目を開けると、そこは見慣れた部屋の中。
 
 
 きょろきょろと辺りを見回すと、そこにはおばあちゃんから譲り受けた薬壺。棚に並べられた器や石皿。乾燥させるために天井から吊らされる薬草。
 
 
 此処がわたしにとって一番安らげる場所で、同時に仕事をする為の部屋でもある。
 
 
 きっと、ここ暫らくは、一日の大半をこの空間で過ごしているに違いない。
 
 
 風通しのために戸を開いていた窓際。どうやら、陽光が差し込んでくる小さな陽だまりでまどろんでいたらしい。太陽は先ほどと相変わらずの位置に浮かんでいる。
 
 
 そんなに長い時間ではなかったけれど、眠ってしまった間に夢を見ていたようだ。
 
 
 ―――夢。そう、わたしは夢を見ていた。
 
 
 目が覚めたのに、どうにも頭がぼんやりとしていて意識がはっきりしない。
 
 
 体が温まっているからか、それとも中途半端に眠っていたからか。
 
 
 白昼夢を観ているように、今この時が現実なのか夢なのか判断が付かない。
 
 
 それでも―――。
 
 
 わたしがいるこの世界が現実である事は間違いが無い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―――だって、この世界には貴方がいないから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 窓の外を見やると、そこは平穏な世界が広がっている。
 
 
 畑を耕す男の人。はしゃぎまわる子供達。木陰で談笑しながら、着物のほつれを直す女性。
 
 
 みんながみんな笑っていて、この世界に生きていることがどれだけ幸せなものなのか、その表情を見るだけで分かるような、そんな満ち満ちた表情を浮かべていた。
 
 
 それを眺めるだけで、わたしの口元が緩む。
 
 
 ……でも、それと同時にわたしの眉が下がってしまうのはどうしてなのか。
 
 
 自問しても答えは出てこない。それは当然のことだ。
 
 
 答えは最初からわたしの心の中にあって、それはみんなには関係の無い事なのだから。
 
 
 だから、この幸福な世界の中で、わたしは一人ぼっち。
 
 
 一人の寂しさは、分け合う人がいないから抱え込んでしまう。
 
 
 喜びも悲しみも、全ての苦楽を共にしたい貴方は、今この世界にいないのですから。
 
 
 ―――ふいに、視界が滲んでゆがむ。
 
 
 眦に指先を当てると、一滴の雫が付着した。
 
 
 その、水晶みたいに綺麗な雫に、思わず視線が吸い寄せられる。
 
 
 どうして、わたしは涙を流しているのだろう。悲しいことがあったわけでもなく、辛い出来事を目の当たりにしたわけではないのに。
 
 
 ただ、貴方のことを思うだけで、想いが高ぶってしまう。
 
 
 ……最近、どうもわたしの涙腺が緩んでしまって仕方が無い。
 
 
 目を覚ますと涙が浮かんでいることは、今に始まったことではありません。決まって貴方の夢を見たときは、こうなってしまいます。
 
 
 ―――ハクオロさん。
 
 
 今は会えない貴方の名前を呼ぶだけで、わたしの胸が疼く。
 
 
 この疼きは、どれだけの時間が経ったら止まるのでしょうか。
 
 
 ……きっと、それは悠久にも等しい歳月を要するでしょう。
 
 
 窓の外は、相変わらずの平穏な世界が広がっている。
 
 
 ただわたしの胸を締め付ける寂しさと寂寥感が、わたしの世界を隔離して、色の無いものとしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『キミガタメ』  〜赤〜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 わたしの胸に、小波のような波紋が広がる。
 
 
 夢見は決していいものとはいえない。起きた後は決まって切なさが胸を締め付け、その内容も良いものではない。
 
 
 貴方がいたときは、この想いを秘めることが辛かった。
 
 
 どうして、貴方は去った後までこうもわたしの心を苦しめるのですか?
 
 
 やっと何の縛りも無く、わたしの想いを伝えられるようになったのに、貴方は今、この世界にいない。
 
 
 伝えられない苦しみは、一度打ち明けた今の方が大きい。ハクオロさんはいつかきっと戻ってくると言っていたけれど、それがいつ訪れるのかはわからないし、もしかしたら二度と叶わない願いなのかもしれません。
 
 
 深い、深い眠りについた貴方が次に目を覚ましたときに、わたしが傍に居られるとは限らないのですから。
 
 
 沈んだ感情を心機一転する為に、わたしは外へと出た。
 
 
 往診の時間だと自分の心に言い訳をして、都合良く自分自身の務めを利用している。
 
 
 今のわたしは薬師として、失格かもしれません。
 
 
 もしもおばあちゃんが見ていたら、きっと怒鳴られるに違いない。「患者のことを思わないで、何が薬師か」って。
 
 
 怪我をしたり、病気に苦しんでいる人に薬師が果たすべき勤めは、決してお薬を処方するだけではありません。その人と親身になって向き合い、その不安な心を元気付けることも、治療の一環。
 
 
 でも、今のわたしは他の人を気にかけられるような元気はありません。患者さんのことを考えなければいけないのに、一度思い浮かんだハクオロさんの姿が消えない。
 
 
 瞼を閉じれば、そこに貴方の背中が浮かびます。
 
 
 どれだけ必死に手を伸ばしても、喉を枯らすほど叫んでも、貴方が振り向いてくれることはありません。
 
 
 それは夢だと、理解しています。
 
 
 ―――でも、それならどうして振り返ってくれないんですか?
 
 
 これはわたしの夢なのに、貴方は姿を現してはその顔を見せてくれない。その声を聞かせてくれない。その温もりを感じさせてくれない。
 
 
 わたしがどれ程ハクオロさんのことを思っているのか、この想いは貴方には伝わらないのですか?
 
 
 ……答えて下さい、ハクオロさん。
 
 
 どうか、わたしの心を苦しめないで―――。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「おはようございます、エルルゥ様」
 
 
 「おはよう、おねえちゃん!」
 
 
 「エルルゥ様、良いお天気ですね」
 
 
 
 少し歩くだけで、わたしは色々な人に話しかけられます。
 
 
 ここは、かつてヤマユラの集落があった場所。
 
 
 わたしとアルルゥが生まれ育ち、貴方と出会い、そして大切な人と別れた思い出の場所です。
 
 
 戦乱の出来事とはいえ、その衝撃はあまりに大きく、辛いものでした。
 
 
 初めてこの集落に足を運んだときは、その悲惨な爪痕に足がすくんで、その場に蹲ってしまいました。
 
 
 集落はかつての姿は見る影も無く焼け落ち、活気に満ちていた人々の姿は無く、静寂だけがこの集落を守るように佇んでいて、まるでこの場所だけ時が止まってしまったよう。
 
 
 ―――あの最後の戦いを終えて、わたし達姉妹が帰ってきたのはこの場所でした。
 
 
 わたし達には、この場所以外に帰るべき場所が残されていません。貴方と同じときを過ごした城は、大切な主を欠いただけで空疎なものに感じてしまえたから。
 
 
 初めは焼け跡から始まったこの集落。二人で綺麗に片付けて、少しずつ耕地を増やしていくその過程で、最初にこの集落が出来たときと同じように、各地から色々な人が集まり始めました。
 
 
 みんな何かの事情を抱えていて、新天地を求めて訪れたこの場所。
 
 
 昔と同じように、この集落は人を選ぶことはありません。クンネカムンはシャクコポル族による一種の支配を目指しましたが、それとは正反対に、どのような種族・事情であろうと来るものを拒まなかったトゥスクル。
 
 
 ハクオロさんが造ったこの國も、その始まりはこの集落にありました。
 
 
 だから、その原点であるこの場所は、この國と同じように来る者を受け入れます。
 
 
 今では昔と変わらない、いいえ、もしかしたらそれ以上の活気を見せるこの集落。
 
 
 みんなそれぞれに事情があって、不安を抱えて訪れたこの集落で、彼らはみんな希望に満ち溢れた表情を浮かべている。ハクオロさんはそんな希望に溢れる人たちを守るために、命をとして戦い、その結果としてその平穏と願いは守られました。
 
 
 未来は確実に守られて、わたし達は自分自身の手でその先を切り開いていく。
 
 
 全て、貴方の願いは成就しました。
 
 
 ……それでも。
 
 
 どれだけ周りが先へと進んでも、わたしの心はあの日から過去に取り残されたままです。
 
 
 かつてのヤマユラの集落と同じように、わたしの世界だけが色を失って停滞しています。
 
 
 アルルゥなら大丈夫。
 
 
 あの子は強い子だから、自分の足でしっかりと立っていけるし、何より成長を遂げるアルルゥは、これから新しい時代へと歩んでいく年代。
 
 
 それに、あの子にとって一番大切な、生涯に渡るお友達がいるのだから。今は二人だけれど、ユズハちゃんもアルルゥたちと共に在るし、その周りにはきっと新しい『縁』が繋がっていくに違いない。
 
 
 オボロさんも、トウカさんもカルラさんも。みんなみんな、新しい時代へと、貴方の想いを受け継いで先へと歩き出しました。
 
 
 でも、わたしは貴方と約束したから。
 
 
 『いつかきっと、帰ってくる』と約束したから。
 
 
 わたしだけが先に歩き出すわけにはいきません。
 
 
 ハクオロさんと一緒に歩き出すその時まで、わたしはあの時と同じ時間で待ち続けているのです。
 
 
 ハクオロさん、わたしは貴方と共にあります。
 
 
 いつか貴方の姿がぼやけてしまうときが訪れるかもしれません。
 
 
 でも。
 
 
 それでも、わたしは夢に見るあなたの姿を追いかけ続けます。
 
 
 あの時と同じように、わたしの両手一杯にハクオロさんの体を抱きしめることができるその日まで。
 
 
 それまでは、夢の世界に貴方の面影を探して、手を伸ばし続けます。
 
 
 だからお願いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 お願いですから、わたしが伸ばした手を、早く掴んでください。
 
 
 
 
 
 その温もりを、その優しさを、また同じようにわたしに向けて下さい。
 
 
 
 
 
 ―――いま、わたしにできることは、ただそれだけのことなのですから。
 
 
 
 
 
 わたしの枯渇した心を、どうか貴方の手で満たして下さい。
 
 
 
 わたしの溢れそうな想いを、どうか貴方の掌で受け止めて下さい。
 
 
 
 わたしの瞳に浮かぶ雫を、どうか貴方の指で拭って下さい。
 
 
 
 
 
 ―――お願いですから、返事をして下さい、ハクオロさん。
 
 
 どうか、わたしの心を苦しめないで―――。