気が付くと、わたしは既にそこに居た。
 
 
 光に包まれて、ここが何処なのか分からない。右も左も、それどころか上も下も見当が付かない。今わたしが立っている場所も、足元は地面についているとは思えない浮遊感を伴って、いつその場から落下するのか分からない不安に駆られた。
 
 
 辺りには何一つとして物が無い。ただ光の空間だけがそこにある。
 
 
 何処を見回しても変わらない景観。一体どれだけの広さを持っているのか、地面がどんな形をしているのか。全てが同じ、ということは何も見えていないのと同じだと思う。
 
 
 例えば、ほら。瞳を瞑ってみて。
 
 
 そこに在るのは、ただ底知れない闇の世界。
 
 
 そこを覗いたからって、その奥行きやその世界にあるものの形は分からないでしょう?
 
 
 ここは、それと全く同じ世界。
 
 
 ただ、漆黒の闇が白銀に近い世界に移り変わっただけのこと。
 
 
 しいて言えば―――そこが光に支配されている場所なのに、全くまぶしさを感じないことだ。
 
 
 恐る恐る、一歩踏み出してみる。
 
 
 地面を踏みしめた、という感覚は無かった。周囲の景観は変わらない。それも当然かもしれない。だって、この世界にはただ一つの色しか存在していないのだから。
 
 
 それでも、なんとなくだけど、確かに一歩進んだという気がした。
 
 
 感じていた不安を少し和らげて、続けて二歩目、三歩目を繰り出す。
 
 
 世界は何一つ変わらないけれど、やはりわたしは歩いている。
 
 
 不安の色を隠せずに硬くなっていた表情も、今は緊張を解いて普段と同じようになっているに違いない。
 
 
 手探りするように手を前に突き出して、確認するように歩き始める。その足取りは慎重だ。
 
 
 なぜそんなことをするのかって、もしも正面に大きな壁があったとしても、この世界ではきっと気が付かないだろうと思ったから。
 
 
 ……でも、そんな心配は杞憂だったようで、しばらく歩を進めても、手に何かが触れる感触は訪れない。
 
 
 本当のことをいえば、私は何かが手に触れることを期待していた。
 
 
 だって、それならここは多少変わっていても、確かにわたしの知っている世界なんだって実感できたから。
 
 
 だけど、その期待は見事に裏切られる形になった。しばらく歩くと、わたしは馬鹿らしくなって前を探っていた手を引っ込めて、普通に歩き始める。
 
 
 初めはただ直線的に進んでいたけれど、今はあちらこちらに向きを変えてうろうろと歩き回ってみた。
 
 
 だけど、その世界にわたしの歩みをさえぎるものは現れなかった。
 
 
 この世界は、何かがおかしい。
 
 
 普通の世界なら、こうして歩いているだけで何かしらの感触を地面から得られる。何かしらの障害物だって現れるはずです。
 
 
 なのに、一向に感じていた浮遊感は拭えない。さらには障害物が現れるどころか何かに突き当たることも無い。
 
 
 しばらく歩いて、わたしは初めから感じていた違和感の正体に気が付いて、同時に胸を撫で下ろす。
 
 
 これは、わたしの夢だ。
 
 
 この世界には何度も訪れている。
 
 
 だから、初めから何かがおかしいと思いながらも、慌てふためくことがなかったのだ。
 
 
 幾度と無く体験しているこの状況に遭遇して、驚くはずも無い。
 
 
 そんな世界に気が付くことが出来なかったこと自体が、この世界が夢であるという何よりの証拠だと思う。
 
 
 よく言われるとおり、夢は見ている最中それが夢だとは認識しにくいし、それに伴って記憶の混濁も良くある事。
 
 
 一度気が付いてしまえば、何の問題も無かった。
 
 
 わたしは歩みを止めて、ひとつ大きなため息を吐いた。
 
 
 何十回、何百回繰り返してこの夢を見たことか、わたしは思い出すことも出来ない。
 
 
 それだけの数、同様の夢を見ながら、その結末が変わった試しは無かった。
 
 
 当然、その結末は歓迎できるものではない。
 
 
 きっと、今わたしが振り返れば、そこには愛しいひとの後姿が見えるはずだ。
 
 
 わたしは確信を持って振り返る。
 
 
 できることならば的中して欲しくない確信だったけれど、その程度で変わる夢なら、今わたしがこの夢を見ることも無いだろうから。
 
 
 だから、諦めの気持ちをもって振り返った。
 
 
 そして当然―――忘れられない貴方の背中が目に飛び込んでくる。
 
 
 覚悟を持って振り返っているのに、その姿を認識したとたん、わたしの鼓動は高鳴り、締め付けられる。
 
 
 まるで耳をそばだてているみたいに、わたしの心臓が早鐘を打っているのが分かった。
 
 
 ドクン、ドクンと飛び出しそうなくらい大きな音を立てて跳ね上がる。どれだけ離れていても、気がついてしまうのではないか。そんな気がするくらい大きく感じた音も、ハクオロさんに届くことはありません。
 
 
 どれだけの覚悟を費やし、勇気をもって振り返って、自分の気持ちを諫めてその姿を認識したのに―――そんな努力は、貴方の後姿を見ただけで、薄紙のように脆く敗れ去ります。
 
 
 そして、愚かなわたしはいつもと同じように貴方を追いかけ、いつもと変わらない結末を迎えて、どれだけ無駄なことをしたのか振り返って後悔するに違いないのだ。
 
 
 それでも……それでも。
 
 
 それでも、わたしは貴方の後を追わずには居られない。
 
 
 たとえどんな結末が待ち受けていようとも、わたしに出来ることはただ貴方を追いかけることだけだから。
 
 
 だからわたしは、わたしにできる精一杯のことをします。
 
 
 だからどうか、御願いします。
 
 
 どうか、わたしの想いに気がついて下さい―――。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 










『キミガタメ』   〜藍〜









 気が付くと、わたしは既にそこに居た。
 
 
 果てしなく続く草原。吹き付ける穏やかな風に身を任せるように、草花はその身体を楽しげに揺らす。
 
 
 遠い地平線の彼方に、小さく森が見えた。
 
 
 ―――ここを、わたしは知っている。
 
 
 くるりと、踊るように身を返す、そこは、わたしが良く知る丘の上。
 
 
 過去の思い出が沢山眠る、一番のお気に入り。
 
 
 ここは……。
 
 
 ここは、わたしとハクオロさんと、アルルゥと。
 
 
 まだその世界に終わりが来るなんて知らなくて、無邪気に笑っていられた素晴らしい日々。
 
 
 そんな懐かしい思い出の眠る、わたし達だけの場所。
 
 
 家族が偽りも無く家族でいられた、楽しい日々の象徴の場所だった。
 
 
 どうしてこんなところに居るのか、わたしには分からなかった。
 
 
 先ほどまではいつもと同じ夢の世界にいたはずだ。
 
 
 そのことを確かに覚えていたし、つい先ほどまではその世界にいたのに―――意識すらしない内に、世界は色を持っている。
 
 
 それに、この場所は今のわたしが居る集落から遠い。そんなところまで足を伸ばすことなんて、考えられない。
 
 
 だから、これもきっと夢の一部に違いない、と。
 
 
 そんな確信を持っていた。
 
 
 思えば、これがはじめて結末の違う夢だと思う。
 
 
 それと同時に、もしもあの苦しい世界が夢だったなら、なんて考えてしまった。
 
 
 今、こうしてあの頃家族で訪れた、お城近くの秘密の草原。
 
 
 わたしはきっと、その草原でうとうとと眠りについて、夢を見ていたんじゃないか―――。
 
 
 そんな生易しい幻想を抱いてしまう自分に、思わず悲しい笑みが浮かんだ。
 
 
 そんなわけがないと、心の中で理解していたから。
 
 
 もし、あの苦しい日々が偽者だとしたら、その前の出来事全てが夢だったという事になる。
 
 
 それが真実なら、色々な人たちに対する侮辱だと、そう思う。
 
 
 貴方が信念を貫き、命を賭して守ったあの世界が、全て偽者でしたなんて。
 
 
 そんなこと、ありえない。
 
 
 あの叫びは、あの戦いは、あの想いは、あの悩みは、あの辛さは、―――あの、貴方への想いは。
 
 
 夢だった、の一言で片付けられるほど軽いものではないって、理解しているから。
 
 
 そんな馬鹿らしい考えを抱いてしまう自分が悲しかった。
 
 
 今、こうして見ている世界が夢なんです。
 
 
 だから、わたしはここで何が起きても驚かない。
 
 
 「―――ハクオロさん」
 
 
 唄うように、貴方の名前を口にする。何か意味があったわけではない。だけど―――。
 
 
 きっと、今ならわたしの想いに答えてくれるんじゃないかって、そう思えたから。
 
 
 
 
 
 「――――――」
 
 
 
 
 
 「―――ッ」
 
 
 弾かれた様に振り返る。
 
 
 今、確かに。
 
 
 あの、優しくて懐かしい、誰よりも聴きたいあの人の声が、わたしを呼んだ気がした。
 
 
 振り返った先には一本の大木。
 
 
 かなりの老木で、どうしてこんな場所に一人で立っているのかは分からないけれど、あの頃はその木陰でよくまどろんだ。
 
 
 傍らにはアルルゥが。そして、わたしを包み込むようにして、いつもそばに、貴方の姿がありました。
 
 
 そして、それは今も変わらない。
 
 
 やや距離がある。それでも、その樹の下にいるのが誰だかはすぐに分かった。
 
 
 木陰はやや暗く、ここからははっきりと顔が見えない。
 
 
 だけど、断言できる、
 
 
 あの背は、あの格好は、あの立ち方は、―――そして、あの声は、わたしにとってきっと忘れることの出来ない貴方と変わらないから。
 
 
 「ハクオロさん!」
 
 
 声が出る。
 
 
 今までの夢では出なかった声が、今ははっきりと口に出来る。
 
 
 地面を蹴って走り出す。
 
 
 その距離はぐんぐんと縮まっていく。
 
 
 今までの夢では近づくことさえ出来なかった貴方に、はっきりと駆け寄ることが出来る。
 
 
 だからきっと、貴方の胸に飛び込むことだってできるはずだ。
 
 
 
 
 
 でも。
 
 
 ハクオロさんは駆け寄るわたしにその手に平を向けた。
 
 
 その仕草は、わたしに確かに伝えている。それ以上近づくな、というハクオロさんの強い意志を。
 
 
 
 「ど……どうしてですか!? せっかく会えたのに……、わたしが、どれだけハクオロさんを想っているのか、知ってるんですか!?」
 
 
 
 だけど、その叫びも届くことは無い。
 
 
 ハクオロさんは、依然としてわたしに手のひらを向けたまま動かさない。
 
 
 またですか。
 
 
 また、わたしは貴方にこれだけ近づいておきながら、貴方に触れることが出来ないんですか?
 
 
 ハクオロさんは答える代わりに、その指で私の後ろを指差しました。
 
 
 わたしは素直にそれに従って振り返る。
 
 
 そこには果てしなく広がっていく草原。そう、そこは先ほどと何も変わらない景色が広がっているだけ。
 
 
 あわてて振り返ろうとして、その試みは遮られた。何が起きたのか、しばらく呆然としてその自体を把握したとたん、わたしの頬は高潮した。実際に鏡に映したわけではないけれど、きっとそうに違いない。
 
 
 わたしの動きを遮ったのは、二本の大きくて優しい手。
 
 
 それがまるで包み込むように、背後からわたしを抱きすくめた。
 
 
 突然のことに驚いたけれど、その瞬間わたしの世界は幸せの絶頂にあった。たとえ夢でもいい。お願いだから、もっと、出来る限り永く。
 
 
 
 
 
 そう、永久に等しく、刻が凍り付いてしまえば良いのに―――。
 
 
 
 
 
 抱きしめられているから、わたしとハクオロさんの距離は無いに等しい。
 
 
 そこから香る懐かしい匂いも、優しく包み込む腕も、全てがわたしの記憶と同じ。
 
 
 もう、これが夢でも現実でも構わない。わたしは今、ハクオロさんと一緒に居るのだから。
 
 
 これまでの苦悩が嘘のように吹き飛んでいく。どれだけ悩み、苦しみ、嘆いた過去も、今この瞬間、その全てが解き放たれたかのように消え去った。
 
 
 今、わたしの全てを、歓喜が占めている。
 
 
 全てはこの瞬間の為にあったんだって、そう確信した。
 
 
 しっかりと抱きとめられる腕に阻まれて、その顔をみることは 出来ないけれど、きっとハクオロさんも最高の笑みを浮かべているに違いないのだ。―――わたしと一緒に。
 
 
 
 「――――――」
 
 
 「―――え?」
 
 
 
 ハクオロさんに、耳元でささやかれる。
 
 
 その言葉が一瞬、風に乗って届いたかのように私の耳を駆け抜けていって、何を言われたのか理解できなかった。
 
 
 
 「嘘、ですよね? せっかく、せっかく会えたのに、……お別れだなんて」
 
 
 
 ぎゅと、ハクオロさんの私を抱く腕の力が強まった。
 
 
 それが言葉以上に雄弁にその現実を物語っていて、わたしは唇をかみ締める。
 
 
 せっかく、せっかく再びめぐり合えたのに……。
 
 
 たったこれだけで、お別れなんですか?
 
 
 
 「――――――」
 
 
 「―――笑って?」
 
 
 
 お別れなのに、笑顔で?
 
 
 そんな気分になれるはずがありません。
 
 
 それでも、貴方がそう望むのなら。
 
 
 わたしはきっと、笑顔になれる。
 
 
 ふっと、わたしを抱きしめる腕の力が緩んだ。
 
 
 次の瞬間、突然吹き付けた一陣の風がわたしの髪を宙へと舞い上げる。
 
 
 咄嗟に目を瞑ってしまう。その時ハクオロさんの温もりを感じないことに気が付き、慌てて振り向いてみたけれど、そこにハクオロさんの姿は無かった。
 
 
 辺りはただ静寂につつまれ、わたし以外に人影は無い。
 
 
 まるで蜃気楼でも見たみたいに、ハクオロさんはその姿を消してしまった。
 
 
 だけど―――。
 
 
 そっと、わたしは体を掻き抱いた。
 
 
 わたしの体に残る温もりは、未だ冷めない。あの感触も、匂いも、姿かたちも、それは間違いなくハクオロさんのものに違いなくて。
 
 
 だからわたしは、自然と笑みを浮かべていた。
 
 
 絶対に自然な笑顔を浮かべられるはずが無いと、そう思っていたのに。笑うなら無理にしか出来ないと思っていたのに。
 
 
 貴方のことを思い出すだけで、わたしは幸せな気持ちになれる。
 
 
 だから、きっとまだ大丈夫。
 
 
 ハクオロさんがいつの日か帰ってくるまでは、きっとこの思い出を胸に耐えていることが出来る。
 
 
 そんな確信に近い想いを持って、天を仰ぐ。
 
 
 きっと、今わたしは目が覚めたとしても、涙を流していないはずだ。
 
 
 貴方とわたしは、いつも共にあるから。
 
 
 たとえからだは離れ離れでも、心は常に一つ。
 
 
 心の底からの笑みを浮かべて、わたしは誓った。
 
 
 お別れは悲しいけれど、その悲しみを笑うことで耐えよう。貴方がいない毎日は辛いけれど、貴方を想って唄いましょう。
 
 
 喩えこの身が朽ち果てようとも、わたしの想いは不滅だから。
 
 
唄にのせて、いつの日か再びめぐり合えると信じて語りましょう、貴方のことを。
 
 
 強くて、優しくて、皆に好かれ、時に弱く、誰よりも固い信念を貫き通して世界を守った貴方のことを。
 
 
 
 
 
 貴方がいつの日か帰ってくることを信じて、今はただ―――。