茂みを掻き分けて見回すが、その姿は見えない。
私は深い息を吐くと、額に浮かんでいた汗の玉を拭った。
額ばかりでなく全身から染み出る汗に不快感を覚えたが、今はそれを気にしている暇は無い。
あたりは次第に闇が訪れ、夕闇に染まる空には早くも幾つかの星が瞬き始める。
外気はそれほど暑くは無い。昼間こそ日差しが厳しいものの、太陽が沈むに連れてその暑さも緩和されていく。
にも関わらず、汗が引くことは無い。
私の心は訪れ始めた夜闇に包まれていくかの如く、不安と焦燥に駆られていた。
捜索は昼過ぎから続いている。
はじめはほんの悪ふざけかと思ったのだ。
昼食にもその姿を現さず、仲のよいカミュやユズハに尋ねてもその行方を知らなかった。
大方何処かに隠れているのだろう、と笑いあっていたのだが、日が傾き始めた頃に不安そうな顔で駆け込んできたエルルゥの様子に、捜索が始まったのだ。
最後に目撃されたのは朝食後。
何時もの様にムックルとガチャタラを連れて、外の森へと入っていったのが兵たちの証言からわかっている。また、その目的を尋ねたものに、日向ぼっこ、と答えたことも。
その行方は皆目見当がつかないが、彼らが一緒であるということが唯一の救いだ。
だが、それでも何があるかはわからない。
不測の事態とは何時にでも起こりうるものなのだから。戦争という悲劇の中に身を置く者として、どのような時であろうと予断は許されない。
―――だが、今ほどその事を、楽観的に捉えられない自分を恨めしく思ったことは無かった。
「―――本当に、何処に行ったんだ」
もうじき森に夜の帳が訪れる。
如何に『森の娘』と揶揄される少女であろうと、夜の森は危険極まりない。
アルルゥ。
それが行方のわからない少女であり、私の大切な娘の名だ。
「オボロ、そちらはどうだ」
私は一旦城の中に戻っていた。心配する気持ちは抑えきれない。上の空で落ち着かない気持ちを静めるために、私は室内に入ってきたオボロに経過を尋ねる。
「……いや、すまない兄者。まだ、何の手がかりも無い」
それは俯きがちなその様子から察することが出来たが、それでも尋ねずには居られなかった。
本当なら直ぐにでも飛び出して捜索を再開したい。だが、それはべナウィに静止されている。皇が過労で倒れてしまっては元も子もない、と諭したその姿はこの場に無い。
侍大将自ら、捜索の先陣を切っているはずおだ。
だが、今の私にとって、動いている以上に待っていることのほうが辛い。心労で押しつぶされてしまいそうだ。
傍らでエルルゥは瞳を閉じて祈るように手を組んでいる。
その姿を見て、私は気を持ち直す。
私以上に、本当の姉妹であり、たった一人の肉親を思うエルルゥは、おそらく私以上に疲弊しているのだ。
親であり、年長者であろう私が、ここで弱気になる訳には行かなかった。
私はそっと、エルルゥを抱き寄せる。
「―――ハクオロさん」
「大丈夫だ―――」
そう、言い聞かせるように耳元で呟く。
エルルゥはきつく瞼を閉じ、私の胸元に顔をうずめた。
彼女は今、不安と戦っている。
これまで以上に強い不安。ヤマユラの集落が全滅した今、エルルゥの心の支えは残った家族―――私とアルルゥのみ。
そんな中でアルルゥの所在が不明。
それは私が居なくなる以上に、エルルゥにとって不安なことだ。
血を分けた唯一の肉親なのだから。
「きっと、直ぐに見付かる―――」
力強く、彼女の不安を打ち消せるように。
―――それはきっと、私自身への励ましの言葉にも違いない。
「―――ウルト」
「はい。後はお任せ下さい」
エルルゥのすぐ傍で彼女を励ましていたウルトリィに声をかけると、既に分かっていると謂わんばかりに頷いた。
その顔に慈母の笑みを浮かべ、私の胸の中で眠ってしまったエルルゥをそっと抱きしめる。
涙を流したことで、それまで捕らえられていた不安を流し、疲れが襲ってきたのだろう。
優しく抱きとめたウルトリィの表情に不安の影は見えない。
私もまた、その表情に励まされる。
絶対に見つかるはずだ。
ウルトリィと言えど不安を感じないわけは無いだろう。
それでもなお、気持ちをひた隠して気丈に振舞っているのは、この沈んだ場を何とか支えようという彼女の思い故に他ならない。
「……私は、なんて情けない―――」
私は皇である以上、皆が不安に陥らないように常に気丈に振舞うことを要求される。それを果たせないがために、ウルトリィはその責を買って出たのだ。
「ハクオロ様は、決して情けなくなんてありませんよ」
「だが―――」
「ハクオロ様は優しい人です」
女神の様な女性は、私に微笑みかけて言う。
「いつも皆の為に尽力して、他人の為に一層の努力をする。そんな人は、滅多に居るものではありません」
その言葉一言一言が私の胸に染み渡る。
「そんな貴方だからこそ、皆自分に出来ることをしようと努力するのです」
ウルトリィは既につきが浮かぶ夜空を、その下に月光が照らす森を見つめた。
夜だというのに光が広がる森。
普段は静かな森に、多くの人の声が木霊する。
「貴方が困っているからこそ、彼らは自分に出来ることをしているのですよ」
そして私も、とウルトリィは囁くように呟いた。
月光の元で白い羽を銀色に光らせながら、何かを守るように手を胸に当てる。
「困った時は遠慮せずに助けを求めてください。それが、仲間というものでしょう? ―――私も、貴方という人に力を貸したいのです」
自然と、私の胸の中で何かが軽くなった。
私ひとりが気負う必要は無かったのだ。
私には、支えてくれる仲間が居る。
ただがむしゃらに取り組まずとも、力を貸してくれる大切な人たちがいる。
だからこそ、私はそんな彼らを守るために、皇になることを受け入れたのだ。
私には仲間が、そして大切な家族が居る。
後は、お前だけだ、アルルゥ。
何時もの私たちには、誰一人として欠けることは許されない。なぜならば、皆が揃って仲間であり、家族なのだから。
「―――聖上っ!」
息を切らせて駆け込んできたトウカ。
その表情には疲れの色が見えるが、瞳は明るく輝いている。
「アルルゥ殿が―――」
綻ぶトウカの表情に、私はそれまで感じていたからだの重さを感じなくなる。
全てを聞き終える前に、私は駆け出していた。
「どうやら、帰ってきたようだな」
「ええ―――」
苦笑を浮かべるオボロ。ウルトリィは段々と人が集まり騒がしくなり始めた中庭を見下ろし、聖母のような笑みを浮かべた。
「―――アルルゥ!」
篝火の焚かれた中庭。兵たちの訓練所として使われるその場所の中心に、見慣れた影。
火の光に照らされて白銀に輝く体毛を浮かび上がらせるムティカパの子。その背に跨るようにして、アルルゥは居た。
アルルゥはこちらに気がつくと、ムックルの背から飛び降りた。
何時もと変わらないその様子に、私の頭は真っ白に塗りつぶされる。
気がつけば、私はアルルゥを力いっぱい抱きしめていた。
「―――本当に、心配したじゃないか」
辛うじて、声を震わすことなく発声できた。
「おとー、さん?」
「今まで何処に―――、いや、そんなことはどうでも良い。―――もう絶対に、心配させるようなことをしないでくれ」
「―――ん」
交わす言葉は少ない。私の心には、安堵感が広がっていった。
―――どれ位そうしていたのか。集まっていた兵たちもいつの間にかその姿が見えない。
「―――そろそろ戻ろう。エルルゥも心配していたぞ」
振り返り、進もうとした所で若干の抵抗に気がつく。
ふと見れば、アルルゥが私の着物の裾をつかんで引っ張っていた。
無言で私の胸に飛び込み、無垢な瞳で私を見上げる。
「―――おとーさん、どこにも行かない?」
「……アルルゥ?」
普段と変わらない表情だが、その瞳に微かな不安が見て取れる。
「夢、見た。……おとーさん、居なかった。おねーちゃん寂しそうだった。……アルルゥも、―――おとーさんいないの、や」
小さな顔を私の胸に埋める。
今まで夢を見ていた、ということらしいが、そこに私が居なかったのだろう。
小さなアルルゥにとって、家族が居なくなることは身を裂かれるよりも辛いことなのだろう。トゥスクルさんや親父さんとの別れは、夢に見るほどまでに辛い出来事だったのだ。
私はその小さな体を優しく抱擁する。
「―――大丈夫だ。私は此処にいる。ずっと一緒だって、約束しただろう?」
「―――」
「そうだな、もう一度、約束しよう」
私は自分の髪を巻きつけた小指を差し出す。
かつて、ユズハと再会を祈って交わした小指の約束。
だが今度は、ずっと一緒に居るという約束の為。
「―――ほら、これで大丈夫だ。約束、しただろう?」
「―――ん」
ようやく安心したのか、アルルゥは体を離して私の手を握る。
その温もりが心地よくて、私は思わず目を細めた。
絶対に、と思う。
絶対に、私はこの温もりを守って行きたいと。
仲間の、家族の温もりをこれからも維持するために、皇という責務を勤めようと。そう、自らの心と空に浮かぶ月、そしてこの手の温もりに誓って―――。
城内からエルルゥが駆け出してくる。
その背後から続いて出てくる仲間たち。
私は、傍らの暖かみをしっかりと握り締め、大切な仲間たちの下へと、一歩を踏み出した。