木漏れ日の下で
軽快な足取り。
それはあたかも舞曲に乗せて舞う踊り子のように軽やかで、見ている傍から飛んでいってしまうのではないか、とありもしない妄想に駆られてしまう。
まだ日は昇りきっていない。
きっかけは朝食を取った後の、何気ない一言だった。
「エルルゥは今日、何をするんだ?」
そう尋ねたのに必然性は無かった。
単に部屋に残っていたのがエルルゥだったこと、久方ぶりに与えられた自由な一日に気分が高揚していたこと、―――しいて言うならば、天気がよかったこと。
そんな何でもないような要因が重なり合った上で、私の気まぐれのまま尋ねた。
「えーと、今日は少し森の方へ行こうと思います。此処のところ、必要な薬草が幾つか足りなくなってきましたし」
告げるエルルゥも楽しげだ。
彼女は元々自然に囲まれて育った女の子だ。
薬師ということもあり、森に入ることは散歩以上の楽しみなのだろう。
その証拠に、エルルゥは無意識のうちに尻尾を左右に揺らしている。
表情も楽しげで、見ているほうも幸せになるほどの明るさを浮かべた。
だからだろう。
私は何気なく、言葉をつむいだ。
「私も一緒に行っても良いか?」
その瞬間、エルルゥは一瞬体を硬くし、次の瞬間奇声をあげた。
「え……ええっ!?」
瞬間的に、頬が朱に染まる。フサフサとした柔毛の耳は、ピンと天を向いて立っている。
……私は何か変なことを言っただろうか?
自問してみるがそんなことは無い。
私はただ、最近過ごせなかった家族との時間を得ようとしただけなのだが。
何だかんだと言いつつ、アルルゥとはよく共に時間を過ごす。―――というよりも、そうしなければアルルゥが拗ねてしまうのだ。
だが、エルルゥと一緒に過ごした時間は、想像以上に少ない。
だからこそ、今日はエルルゥの手伝いをしようと思ったのだが―――。
「―――すまない。迷惑だったなら別に……」
「め、迷惑なんかじゃありません!」
言い終わる前にエルルゥがその言葉をさえぎった。
「本当に―――いいんですか?」
不安そうに私を見上げる。
……ああ、そうか。
エルルゥは普段忙しい私のことを案じているのか。
「ハクオロさんと一緒だったらとっても嬉しいですけど、でも、ゆっくりしていたほうが―――」
私の身を案じてくれることに、嬉しさを感じる。
「いや―――私は、エルルゥと一緒に居たいのだが……駄目だろうか?」
「いえ!―――とても、嬉しいです」
そうした経緯があって。
私は、エルルゥと共に森の中を歩いていた。
今日の予定が決まった途端、エルルゥは厨房に篭って再び料理を作り始めた。
それが、今抱えているバスケットの中身だ。
ちょっとしたピクニック、といったところだろう。
……とはいえ、この重さは尋常でないと思うのだが。
少なくとも、決して二人で食べるような重さではない。
だからといってエルルゥがそれほど大食漢(?)かといえばそのようなはずが無い。
―――つまり、この中身の大半が、私の胃袋に納まる予定なのだ。
そう思うとやや気が引けるが、楽しそうに鼻歌を歌い前を歩くエルルゥの姿を見ると、それさえもどうでもいいものに思える。
「ハクオロさん、着きましたよ!」
嬉しそうにはしゃぐその姿は、年相応の女の子らしさを垣間見せる。
数歩遅れて追い付いた私が見たのは、とても美しい草原。
そこだけが示し合わせたようにぽっかりと木が存在しない。
楕円形に広がる草原の中心に、例外として老木が枝を伸ばしていたが、
「―――綺麗だ」
風に揺られる草花。
息づく緑に囲まれた老木は、そこだけが休息所のように木陰を形成していた。
「ここは、私の秘密の場所なんです」
エルルゥはゆっくりと、私に添うような形で歩き始めた。
目的地は明らかだ。
「たまに薬草を採りに森に入るんですけど―――ここは、つい最近見つけた場所で、アルルゥも知らないんですよ」
エルルゥは大木の根元に腰を下ろす。私も一緒に、隣り合って腰を落ち着けた。
ふと見上げると、微かに漏れる木漏れ日が肌に心地よい。
頬を撫ぜるように吹く風。土の温もりが感じられる草の匂い。
そのどれもが、ヤマユラの里を懐かしく思い出させた。
私は大きく息を吸い込み、伸びをした。
体中に行き渡る新鮮な空気。
体の中を廻る空気が、私の体を浄化しているかのよう。
閑静な森のなか、そこだけが外界と隔離されているかのように、平和だ。
「ハクオロさん―――」
「どうし―――」
突然訪れた浮遊感に気をとられ、返答が途中で途切れる。
気がつけば私は蒼く澄んだ空を見ていた。
その空を背景に、私の視界一杯に広がるエルルゥの顔。
その表情は慈しみを受けべる。
頭に感じる柔らかくて心地よい感触。
ごめんなさい、と笑いながら言う。
「ハクオロさん、何時もお仕事で忙しそうで疲れてるから―――今日はゆっくりしてください」
エルルゥの膝枕に、私はくすぐったい様な照れと、それ以上の安楽に、ゆっくりと瞳を閉じる。
「―――ああ、すまない」
私は、駄目な大人なのかもしれない。
彼女の為に今日は時間を過ごそうとしたのに、逆に彼女に気を使われてしまう。
そればかりか、段々と気が、遠く―――
遠くから聞こえてくる『子守唄』。
それはとても優しい声で、どこか懐かしい響き―――。
風が、凪ぐ。
穏やかな風に揺られる草花が奏でる、カサカサとした音が心地よい。
雲の流れは緩やかで、時の流れさえ普遍に思える。
互いに無言のまま、私たちは空を見上げていた。
たまに交わす言葉も他愛無いもの。
仲間の事。アルルゥの事。ちょっとした失敗談。
何てことは無い、無意味な話。
だが、その会話で私たちは互いに笑いあう。
「―――エルルゥ」
「何ですか?」
「海を知っているか?」
きょとんとした顔をするエルルゥ。
「海、ですか? ―――確か、水がたくさんある所、ですよね」
山里で生まれ、育ったエルルゥ。
彼女はその存在を知っていても、実際にその目で見たことは無いのだろう。
「ああ。とても広い。あの空と同じくらいに」
想像していた以上の規模に驚いたのか、驚いた表情で口元に手を当てる。
「そ、そんなに大きいんですか?」
「そう、そして空と同じくらい蒼く澄んでいて、とても綺麗なんだ」
実際に訪れた記憶は無い。
それでも私は海、というものを知っている。
それほどまでに私の記憶に残っていること。
だから、おそらくそれはとても美しいものなのだろう。
エルルゥはどこか遠い目をして空を見上げた。
つられて、私も空を見上げる。
どこまでも高く、蒼い空。
それはいつか見た空と同じ色。
何故か、私の眦に涙が浮かんだ。
どうして涙腺が緩んだのかはわからない。
それでも、私の胸から込み上げてくる感情は抑えきれない。
私の忘れられた記憶。
その中でもおそらくとても昔、―――あるいは、それよりももっと昔の思い出。
単なる既視感とは異なる、その想い。
それはこの空のように果てない未来への期待と、突如として訪れた悲壮な結末への嘆き。
私はそれを知らないはずなのに、自然と様々な思いが浮かぶ。
「―――ハクオロさん?」
掛けられた声にはっとする。
私の顔を覗き込むエルルゥは、心配そうだ。
「いや―――何でもないよ」
私はエルルゥを見つめる。
―――今の私には、彼女がいる。
彼女だけではない。
家族が、大切な仲間がいる。
たとえ、どんな過去を盛っていようとも、今の私は幸せなのだ。
「いつか、みんなで海へ行こう」
「―――はい」
そう。
その時は必ず皆一緒に。
私たちはその場を後にする。
―――振り返ることは無く。二人寄り添うように。