A prologue / 1







 断ることも無くドアを押し開ける。

 目的の人物はベッドの上でシーツに包まっている。

 その姿はさながら美しい彫刻のようで、若干意識が引きずられるが、それ以上にこの家の主である私以上に睡眠を貪るその姿に、それ以上の苛立ちを覚えた。

 珍しく感情が行動に表れたのか、私の足音は普段のそれより響いていたが、死んだように眠る男はそれに気がつかない。

 枕元に立った私は、よく見れば端正な顔を無表情に見下ろすと、一つ大きめに息を吸い込んだ。



 「おい、起きろ志貴。お前、いつまで寝てる気だ」



 だが、その寝顔はぴくりとも動かない。

 昔からのことだが、毎度の事であるがために、私の苛立ちは抑えられない。

 無造作に手を振り上げると、私は何の躊躇いもなくそれを振り下ろす。

 どすっ、と鈍い音が室内に響いた。



 「―――お、おはよう、式」



 手刀は間一髪目を覚まして避けた志貴の傍にめり込んでいる。

 当然、起きていなければ首があった場所だ。



 「ああ、おはよう。―――毎度毎度、反省の無い奴だよな」



 「反省してないんじゃ無くて起きられないんだって。俺が朝弱いの、知ってるだろ?」



 「知るか。危険が迫って飛び起きられるならいつだって起きられるはずだろ」



 そんな事いってもなー、とぼやく志貴。枕元に置かれた眼鏡を掛け、一つ伸びをする。



 「幹也さんだったら、式だって、こんな起こし方しないだろ?」



 うるさい。

 もう一度私が手を振り上げたのを、慌てて志貴が静止する。

 くだらないことを言うからだ。



 「早く飯の支度してくれ。腹が減って仕方ない」



 「式、女の子はそんな喋り方をしちゃいけないよ―――って幹也さんなら……」



 私は勢いをつけてドアを閉める。

 部屋の中に悶絶する志貴を残し、居間へと戻った。

 呻き声が暫く響いていたが、私はそれを無視してソファに座り込む。

 テレビはあるがつけない。

 そもそも私はこんなものを必要としていない。朝から騒がしいのは苦手だ。

 どうしても、と志貴が懇願するから食事中と朝は付けない、という約束で置いている。

 窓の外を見やるといつもと変わらない、退屈な景観が広がっていた。

 無機質なコンクリートの肌を剥き出しにした古いマンション。

 路上を笑いあって歩く高校生の姿が、とても遠い世界のものに感じられた。

 普段この時間に起きることは稀だ。

 だから彼らを見たのはこれが初めてだし、おそらく最後になるのだろう。

 その程度の接点しかない関係に、私と彼らは在る訳だ。

 今日私が早起き―――といっても普段と一時間程度しか変わらないが―――した理由は、単にトウコに呼ばれたからだ。

 蒼崎橙子。

 私も詳しくは知らないし、興味も無いが、一応『封印指定』とかいう魔術師だ。

 どうやらその腕は一級品らしく、その名を聞いただけで震え上がる輩が居るほどである。

 今は伽藍の洞―――これも正式な名ではない―――という会社を経営しているが、それも利益を追求してのものではなく、自分の気に入った仕事しかしないという偏屈ぶり。

 それでも生活していけるのだから、その腕に疑いは無いのだが、時折金欠になって唯一の従業員に金をたかるのはどうかと思う。



 「はい、おまたせ」



 気がつけば、志貴が食卓に朝食を並べていた。

 私は立ち上がってテーブルに着く。



 「―――これ、何だ」



 「何って、見ての通り」



 私の席の前には皿が一つ。

 白米に海苔を組み合わせ、塩の風味を付けた一品。―――ようするに、おにぎり。

 その傍らに、ちょこんと申し訳なさげに漬物が添えられている。



 「―――朝飯の支度って、これだけか」



 私は大仰にため息をついた。



 「し、仕方ないだろ。冷蔵庫に何も入ってないんだから。そもそも、昨日の買い物は式の当番だろ」



 「言い訳するなよ。そもそも、お前は一応オレが雇ってる使用人なんだからさ」



 そう。この男―――七夜志貴は私の使用人だ。

 使用人、といっても私の身の回りの世話をしているのかといえばそうでもない。

 むしろ、私のほうが料理のレパートリーも味も上だと思う。

 私と志貴の関係が、便宜上単に主人と使用人の関係、となっているだけの事。

 そうでなければ、私が志貴を起こしに行った時点で首が飛んでいるだろう。

 使用人―――というのとは少し違うが―――という面で見れば、父の秘書として両義の武家屋敷に居る秋隆の方が格上だ。

 志貴との関係は私が幼い頃から続いている。

 何時からか共に両義の屋敷で暮らしていたが、私が家を出たのに付いてきた。

 詳しいことはごたごたしていてよくわからないけれど、確かなのは志貴が私の幼馴染だ、ということだ。

 ―――と言ったところで、それは私にとって『知識』であって、私自身実感を伴う記憶ではないのだが。

 「ほら、文句言うなって。橙子さんが呼んでるんだろ?」



 「―――ああ。全く、オレはあそこの従業員じゃないっていうのに」



 何だかんだぼやきながらも、結局私はトウコの呼び出しを拒否する気は無かった。

 質素は朝食を済ませると、私は外出用の紬に着替えて家を出た。



 「―――で、何でお前が付いてくるんだ」



 私の傍らに立つ志貴。当然のように施錠して、後を付いてこようとする。



 「良いだろ、別に。家に居たって暇なんだからさ」



 ……まあ、拒否するような理由も無い。

 何せ、私が呼ばれた理由すら分からないのだから。





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 「ああ、やっと来たか」



 冷房によって冷やされた空気が体を包む。

 橙子さんはその奥、紫煙を燻らせて机の向こうに座っている。

 なんというか、眼鏡をかけていない時は本当に偉そうというかなんと言うか。眼鏡をかけている橙子さんしか知らない人が見たら卒倒しそうだな、と思考を巡らせた。



 「やっと、って何だ。呼び出されたのはオレのほうだぞ」



 「何だ、機嫌が悪いな。何かあったのか」



 「別に―――朝飯が貧相で腹が空いてるだけだ」



 辛辣な言葉が胸に痛い。

 ……一応、用意できる範囲ではあれしか用意できなかったんだけど。

 野菜も肉も残っていないんじゃ、炒飯すら作れない。



 「―――何だ志貴、お前も来たのか」



 今気が付いた、とでも言わんばかりの挨拶。

 この人は昔から俺に冷たい。



 「……おまけで悪かったですね」



 「いや、ちょうど良い。志貴にも頼もうと思っていたことがあったからな」



 そう言って、橙子さんは机の一番上の引き出しから数枚の書類を取り出す。

 その間、俺は先ほどから感じていた違和感に思い至り、口を開いた。



 「あれ、幹也さんはどうしたんですか? 何時もだったらもう居るはずですよね?」



 ん、と珍しく橙子さんが眉を歪めたが、それも一瞬のうちに立ち消える。



 「ああ、黒桐は―――ちょっと仕事で出ている。実は、今日呼んだのはそれに関連がある事だ」



 差し出された書類を受け取る。

 式に渡そうとしたが、後で良いよ、と先を促される。

 一枚目は新聞記事のスクラップ。



 「―――三咲町、連続怪死事件、ですか」



 それについてはよく知っている。

 最近世間の話題にあがるのは専らこの事件だ。

 連続殺人という見出しさえ衝撃的なものなのに、この事件には更なる尾ひれが付いている。

 ―――曰く、被害者は体中全ての血液が抜き取られている。

 ―――曰く、犯人は吸血鬼に違いない。

 何ともワイドショーが喜びそうなテロップが浮かび、この時間のテレビはさぞ賑やかだろう。



 「巷で話題になっているが、この事件には裏がある。―――志貴、この事件について知っていることを言ってみろ」



 「ええと、……確かこないだ見つかった被害者が三人目で、共通点として全身から血が抜かれている。生前に被害者の共通点が無いこと、異常な殺害方法から犯人は愉快犯。吸血鬼が犯人じゃないか、って言う話もありますね」



 全部テレビで言っていたことですが、と付け足す。



 「―――まあ、概要はそんなもんだろう。で、どう思う」



 「どう思うって、吸血鬼ってやつですか? どうなんでしょうね。人間業じゃないことは確かですけど、これまで吸血鬼なんて実物を見たことも無いですし」



 仮にも橙子さんや式と関わっている。

 詳しいことは知らないけれど、吸血鬼という存在が実在だということは昔聞いたことがあった。



 「私はお前の考えを聞いたんだけどな。―――まあいい。これはほぼ間違いなく吸血鬼が関わった事件だよ。それと志貴、被害者が三人というのは間違いだ。実際はもっと多い」



 感情無く答えるその瞳からは、何を考えているのか読み取れない。



 「―――まだ見つかっていない被害者がいるって事ですか?」



 それはある意味そうだけど、と加えて、橙子さんが口を開く。



 「おそらく死体は見つからない―――というより無い、といったほうがいいかな。そこらへんを詳しく知るには吸血鬼についての知識が必要だが―――」



 「そんなことはどうでも良いだろ。さっさと用件を言ったらいいじゃないか」



 体を壁に預けて目を閉じていた式が苛立つように言う。



 「そう急くな。何事も最低限の知識は必要だぞ」



 「トウコの話は全然最低限じゃないだろ。話してるうちに日が暮れる」



 酷い言い様だが、ある意味式の指摘は正しい。

 橙子さんと言う人は、一度興味をもったことに対する執着が非常に強い。

 そのためいつも幹也さんが実害を被ることが多いし、実害は無くともその手の類の話は冗談ではなく日が暮れるまで話し続けそうだ。



 「うーん……とりあえず、吸血鬼の簡単な知識だけは知りたいですね」



 とはいえ多少の知識が無ければ話の流れすら読めないのは目に見えている。

 途中二、三度ほど脱線しかけた話を何とか修正し、必要な情報を頭に叩き込む。



 「―――つまり、今回の事件にはその死徒、とかいうのが関わっているってことですか?」



 「ああ。どうやって発生したのかは不明だが、規模から考えてそこそこの実力はあるみたいだな」



 短くなった煙草を銀の灰皿に押し付け、新たな一本を口に咥える。

 深く吸い込むように間が空いた。



 「―――黒桐は今、その調査に当たっている」



 「な―――危険じゃないですか!」



 話を聞く限り、死徒は普通の人間が太刀打ちできるレベルではない。

 『探す』という行為を例外としては、普通の人間の代表格といえる幹也さんに、もしもの際に身を守れる手段は無い。



 「そう、そこで用件が出てくる。―――黒桐の下に赴いて、引き続き調査を続けてもらいたい」



 その瞳は俺を捕らえたままだが、言葉は間違いなく式に向けられている。



 「―――いいよ。どうせ暇だからな」



 「ああ、存分に暴れて来い。相手は人外だ。―――これ以上にいい相手は居ないだろう?」



 式は答えることなく、背を向けて部屋を出て行った。

 残されたのは所在無い自分と、相変わらずの橙子さんのみ。



 「で、何でそうまでして調査を続けるんですか?」



 危険なら関わらなければいい。そこまでのリスクを犯すのだから、相応の理由があるはずだ。

 橙子さんは椅子に腰掛けたまま、俺を覗き込むように見上げる。

 全てを見透かすようで、同時に冷たさを帯びた眼光が俺を射抜く。

 一瞬の沈黙。



 「……あいつらに長いこと暴れられると、私の立場上迷惑極まりないんだよ」



 蒼崎橙子は封印指定の魔術師だ。

 『封印指定』の詳しい意味は知らないが、魔術協会がなんとしても管理下におこうとする一角を占めるにもかかわらず、橙子さんは自由にここ日本で活動をしている。

 三咲町は地理的に近い位置にある。

 そこで強力な吸血鬼が暴れだせば、当然相応の力を持った者が彼の地に来ることも十分に考えられる。

 そうなれば、橙子さんは予期せぬ形で居場所が判明する可能性が出てくるのだ。

 これは十分に動くに値する理由。



 「―――それに志貴。彼の地はお前にも因縁だろう」



 「……」



 三咲町。手にした書類には当然その名も記されている。

 近郊でも有名なグループの本家『遠野』の本拠。

 俺は深くため息を吐くと、最後まで表情を変えることの無かった橙子さんを残し、立ち去った。