「お願いします!」
部屋中に声が響く。
外はすでに夜の帳が訪れている。真夜中に近く、すでに歩哨以外は寝静まっている時間だ。
例外ではなく、ハクオロもまた自室で眠ろうか、という所だった。
今日は朝議が終わって以来、今の今までべナウィの監視の下ずっと書斎に篭り続けた。
その案件となるものの殆どは、雨季が近づいてきた事による治水についての嘆願書や進行状況の報告、それに伴う予算の配案等であったが、万一大雨による洪水被害が出ては民に被害が及ぶ。
どれ一つとして気を抜くことが出来ない重要な案件だった。
これらの工事はトゥスクル建国時に一度行ったことであったが、今回はクッチャ・ケッチャの襲撃により破壊された水門や併合されたクッチャ・ケッチャの土地に加え、シケリペチムの崩壊に伴い傘下に入った領地のものも含められるためにその量たるや膨大極まりない。
だからと言って一般政務の仕事が減るわけでもなく、チキナロと兵糧の購入に伴い金額交渉も行ったため、普段よりも疲労の度合い、所要時間ともに倍増した激務をこなした。
そして疲れ果て、着ていた服も其のままに敷布へと倒れこんだ矢先のことだ。
「失礼します!」
と、返事も聞かずに扉を開け放ち部屋を訪れたのは、トウカだった。
普段堅いと思うほど礼儀正しい彼女が、夜中に訪れる。
ハクオロはその異常を感じ取り、眠気も吹き飛ばして起き上がった。
「ど、どうしたトウカ、何があった!」
「夜分遅くに申し訳御座いませぬ。無礼は承知で御座いますが申し上げたいことが ――― 」
トウカは一目散でここに駆けて来たのか、肩を上下させていた。顔も心なしか朱が刺しており、着衣も若干乱れている。
「そんなことはいい。一体どうした」
ハクオロはトウカの肩を掴むと、トウカの顔を覗き込む。
その表情は真剣そのもの。一刻も早く伝えねば為らないほど重大な用件とは一体なんなのか。
「お願いします!」
トウカはその場に座り込むと、きちりと正座に居直る。そして刀を床に置き、きっちりと礼をした。
「某に、―――某におんならしさ、という物を教えて下さい!」
「―――は?」
しん、と静まり返る室内。
先程までの騒々しさが嘘のように静まり返る。トウカは額を床に擦り付けたままだ。
呆然とするハクオロは、これは夢じゃないかと頬を抓った。
じんじんと痺れる痛みと、夏の訪れを予感させる虫の鳴き声だけが、ハクオロに現実を告げていた。
『おんならしさ』
「―――それで、そうして急にそんなことを?」
いつまでも顔を上げないトウカを起こし、自ら淹れたお茶を啜りながら、ハクオロは尋ねた。
トウカはようやく落ち着いた様で、若干目を赤く腫らしながらもお茶を啜った。やや驚いたような顔を浮かべると、表情が緩む。
「これは……結構なお手前で」
どうやら出したお茶は結構美味しかったらしい。
「ああ。エルルゥが淹れているのを見ていて、自然にな。まだエルルゥの様にはいかないが」
「いや、そんなことはありません。聖上の炒れたお茶もなかなかの―――あぁっ、何という事を! 臣下たる某が聖上にお茶を淹れさせて―――誠に申し訳御座いませんでした!」
再び平伏すトウカ。
ようやく顔を上げたと思ったら、肝心なことを聞く前に再び元に戻ってしまった。
ハクオロはどうしようかと頭を悩ませるが、どうしようもない。
何とか宥めすかし―――私は気にしていない、とかトウカの淹れたお茶も飲んでみたい、とかトウカの話が聞きたいのだが、とか―――トウカが顔を上げたのはそれから数刻の後だった。
「今度こそ訊くが、一体何故そんなことを気にするのだ?」
先程まで赤かった目に、今度は薄らと涙を浮かべて、トウカは言った。
「実は―――」
「あら、奇遇ですのね」
トウカは湯浴みの帰りであった。城内には兵士達が汗を流すための浴場があるが、訓練所に近いそれは兵士達のために作られた場所であり、女性が利用する場所はない。
とは言えトゥスクルには女性士官が多く存在する。それに加えて、他国と比較してもこの國の城には多くの女性が住まっていた。
トウカの身近だけでもエルルゥにアルルゥ、ウルトリィにカミュ、ユズハやカルラなど、その数は多い。
そのためハクオロは、城内の奥に後付けで女性専用の浴場を設置した。
今もまたトウカはそこを利用してきたのだが、ここは城の奥。その通路には倉庫のような物がたくさんある。
その中から出てきた女は、トウカと目が合うと妖艶に微笑んで声を掛けた。
「カルラ殿。一体どうしたのです?」
「ええ、少しコレが足りなくなってきたので、少しばかり補充ですわ」
カルラは手をくいっと曲げる仕草をした。見れば足下には二つの大樽が転がっている。
そう。そこは製造された酒を寝かせるための酒蔵だった。
とはいえこの城の酒の消費量を鑑みるに、ここは彼女の別室といっても過言では無い気がしたが。
「お酒……ですか」
「ええ。良かったらあなたも飲みます?」
それでしたらもう一つ抱えてきますわ、と言うカルラ。
「いや、某は遠慮しておきます。今宵は聖上のお傍付として警護をしようと思いますので」
以前ハクオロの傍付となる、と言った折には寝室まで入り込んで無言で座り込んだトウカだが、ハクオロがどうしても、というので睡眠時はトウカも離れていた。とはいえハクオロの事が気になるのか、今でも時折寝室の外で警護と称して辺りを警戒している。無論、そのことをハクオロは知らない。
「そう、残念ですわね」
あまり残念そうには見えないが、カルラはそう言うと両肩に樽を担ぎ上げた。
大の大人でも一つ運ぶのが精一杯という大樽を二つも抱えて涼しい顔をしているのだから、ギリヤリナ族の戦士の肉体は常人のそれとは比べ物にならないのだろう。
だが―――。
「どうかしましたの?」
カルラが視線に気付いて振り返った。
「へ? あああ、あの、」
トウカは顔を真っ赤に染めた。トウカは確かにカルラを見ていた。ただ、その見ていた部分が問題であったのだが。
一瞬怪訝そうな顔をしたカルラだが、その意図に気付いて顔を笑みに歪ませる。
「―――あなた、そんなことを気にしてますの?」
変なところで察しが良いのが気に食わない。
トウカはカルラを―――正確には彼女の体を眺めていた。
自分と同等に渡り合うギリヤリナの戦士。まともにやり合えばどちらが勝つかは分からないだろう。
それに加え、その筋力はトウカを優に凌駕する。速さならば負ける気がしないが、速さはそのまま威力に置き換えられる。一撃の重みで言えば、岩石を両断するトウカよりも粉々に破砕するカルラの方が上手だろう。
そんな彼女の体つきは、しかしトウカのそれを大きく上回る。
鍛えられ、筋肉のついた体つきであるが、それはとてもしなやかで余計な厚みを持たない。女性らしく出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。
その体を維持するための何かしているのだろうか、と考えても、彼女は日々好きなだけ喰らい、飲み、そして惰眠を貪るのみ。
武士であるとはいえ彼女も一人の女性。そうした部分は非常に気になる部分である。
「いや―――うむ……」
口を突いて飛び出した否定であったが、肯定せざるを得ない。
別にトウカの発育は悪くはない。平均か、むしろそれよりも育っている。だが目前に例外が、それも相手が好敵手であれば、劣っている部分はどうしても引け目に感じてしまう。
にやつきながら戻ってくるカルラは、新しい玩具を手に入れた子供のような表情をしている。
「天下の轟くエヴェンクルガの武士が、そんなことでお悩みとは以外ですわね」
「くっ……!」
面白くて仕方がない、というようにトウカを見るカルラ。
「まあ、いいですわ。特別に教えてあげましょう」
何を考えたのか、いきなりそのような意味深な発言をした。
「ほ、本当か!?」
「ええ、嘘ではありませんわよ」
依然としてトウカの顔は赤く染まったままだが、その表情は明るい。
「とはいいましても―――胸を育てるなんてあの方法しかないと思いますけど」
「あの方法、とは?」
きょとんとした様子のトウカを手招くと、カルラはなにやら耳打ちをした。
「――――――」
「――――――?」
「――――――」
「――――――!」
突如として火がついたように跳び退ると、トウカはその茹蛸みたいな顔でカルラに向き直る。
「は、破廉恥なっ! そのような真似、出来るはずがないであろう!」
「あら、一度あるじ様に見せた体でしょう。何ができませんの?」
「―――っ、とにかく、その様なことは断じて拒否します!」
せっかくアドバイスしてあげましたのに、とのたまうカルラはあくまでも楽しげだ。
「そもそも、どうしてそんな事を気にしまして?」
確信をついたカルラの言葉に、限界まで赤くなっていたトウカの頭は破裂寸前だった。端から見れば湯気が出てきそうなほどに赤い。
「そ、それは―――」
「見てもらいたい殿方がいる、と。そう言うことですわよね?」
「うぅ……」
もはやトウカは何も喋れなくなっている。あまりに赤くなりすぎて思考回路が混乱しているのだ。
あくまで楽しげににやつくカルラに答えられたのは、それから数刻を要した後のことだった。
「……いじょ…は……」
「何ですの?」
「……せ、聖上は、某のことをきちんと女として見て下さっているのだろうか……」
ようやく口に出したそれが、トウカの心からの言葉だ。
以前、トウカは自らの体をハクオロに差し出した。確かにエヴェンクルガの女が外に出る、ということは新たな血を取り入れることを要求される。
だが、ハクオロに対してはそのような気持ちを持っていない。一度は敵対した身でありながら、臣下として仕えることを許してくださった。
その後身近で彼と触れ合い、その優しさに触れることで、武士としてのトウカに一つの淡い心が生まれたのだ。
気が付けば、カルラが険しい視線で見据えている。
「……それは―――」
あなたの『使命』の為に、あるじ様にみてもらいたいと?
彼女の瞳は言外にそう問うていた。
「いや。某の本心だ」
それだけは、自身を持って宣言できる。
しばしの間、視線が絡み合う。と、カルラはため息をつきながらその視線をはずした。
「―――全く、あるじ様はどれだけ敵を増やせば気が済むんですの?」
「は?」
「―――とにかく、あるじ様に見てもらうのに体は関係ないでしょう」
「い、いや、しかし」
「考えてみなさい。あるじ様はあのエルルゥを一番に思っていますのよ?」
「――――――」
ハクオロに想いを寄せる女性は多い。それは彼本来の優しさを見抜ける女性が多いこともあるのだが、その数多くの中でハクオロが最も気にしているのが、エルルゥだ。
彼らが付き合っている、とか幾度となく逢瀬を重ねている、等といった話は聞かない。
それでも端から見れば彼が誰を想っているかなど、一目瞭然である。
まあ、今の会話を聞かれでもしたら、トウカとカルラと雖も無事に生き延びられる保証は無いが。それ程までに、辺境の女は強い。
「しかし、それならどうしたら聖上に見て頂けるのだろうか……」
「女の魅力、しだいじゃないかしら?」
「魅力、といわれても……」
正直な話、トウカは自分に女の魅力があるとは考えられなかった。
これまでハクオロと長い間共に行動しているが、その様な雰囲気になったことなど無いし、あの一夜の出来事だってトウカ自身から迫っていったものだ。
「私、あるじ様と会っただけで抱かれてしまいましたし」
「な、何ッ!」
「それも一度に何度も。私、立つのが精一杯になってしまいましたわ」
語るカルラは相変わらず悪魔の微笑みを浮かべているが、トウカはそれに気がつかず、自分の思考にとらわれていた。
某とカルラ殿の違い。……やはり、体の違い位しか考えつかない。
「そうですわね……あるじ様自身に聞いてみましたら?」
「し、しかしそれはあまりに露骨では……」
「あら、これであるじ様好みの『おんならしさ』が分かりましてよ?」
そういわれるとそんな気もする。
「ほら、善は急げといいますし、今からいってらっしゃいな」
「―――ああ。恩に着る、カルラ殿」
駆け出すトウカの後ろで、カルラはその笑みを隠し切れないでいた。
「―――どうした、トウカ?」
ハクオロは固まってしまったトウカの扱いに困っていた。このままでは眠ることもままならないし、トウカが真剣に悩み事があるのなら乗ってやりたい。
「せ、聖上?」
はっと、トウカがこちらに帰ってきた。
「い、いや、何でもありません。ただ、某は自分に魅力が無いと実感し、どうしたらよい物かと悩んでおりまして……」
とてもじゃないが、カルラとの会話の内容は話せるような物ではない。それを言おうものならば、トウカは自分の想いをすべて曝け出さなければならない。今はその覚悟が出来ていなかった。
「トウカ……」
一方のハクオロは驚いていた。エヴェンクルガの武士として、常に誇り高く高潔な精神を謳っているが、同時に彼女が持ち合わせる弱さにも気が付いていたからだ。
気丈に振舞っているが、トウカはとても優しい女の子だ。幼少期から大事にしている人形をみてもそれがわかる。
戦場になれば幾人もの人を殺してきた。それはこれからも変わらないだろう。だが、その一方で、トウカの優しい心は傷ついていく。
いつか、そんなトウカの心にも限界が訪れるのではないか。ハクオロはそんな危惧を抱いていた。
だが、トウカが普通の女性のような悩みを打ち明けてくれたなら、それはハクオロが彼女の心の傷を癒せる立場にある、ということに他ならない。
……若干、トウカの背後にカルラの影が見えた気がするが、それは気のせいだろう。
ハクオロはトウカの頭に手を乗せると、優しく労わるように撫でつけた。
「せ、聖上?」
トウカが驚いたような顔で見上げた。
「心配するな。トウカはちゃんとした女の子だ。凛々しくて頼りになるけど、人形を大事にできる心も持っているし、アルルゥを妹のように可愛がってくれる優しさだってある」
そう言い聞かせるように、ハクオロはトウカの耳元で囁いた。
トウカはその両眼にためた涙を堪えきれず、頬に涙が伝う。
「せいじょう〜っ!」
ハクオロに抱きついて涙を流すトウカ。
そんなトウカがいとおしい。ハクオロはそっと手を伸ばすと、しっかりとトウカを抱きしめた。
―――まるで、小さな子供だな。
ハクオロはそんな事を思う。だが同時に、トウカの弱さを垣間見た気がして、安心した。
ガシャンッ!
その時だった。部屋の入り口で何かが落ちて割れるような音が響いた。
ハクオロはその音に顔をあげ
―――そこに、鬼を見た。
「エ、エルルゥ……」
エルルゥは下を俯いたまま動かない。
いや、よく見ると体は小刻みに震えている。その足元には割れた陶器の湯呑。
耳を澄ますと、エルルゥが何かを呟いているのに気が付く。
「エ、エルルゥ―――?」
「……ハクオロさん、疲れてるだろうなぁって、政務がおわるのを待ってお茶をいれて……」
その声に抑揚は感じられない。だが何故かその声に、ハクオロの中の何かが警鐘を鳴らしつづけている。
「……それなのに、来てみたら―――女の人を寝室まで連れ込んで仲良くしてたわけですね……」
だが。体が固まって動かない。蛇に睨まれた蛙とはこのことか。
絶対的な恐怖に体が竦んで身動きが取れなくなっていたのだ。ハクオロは誤解を解くべく胸元のトウカに目をやる。
「お、落ち着くんだエルルゥ……それは誤解だ。トウカが相談事があるというから……」
そうしてトウカを見―――ハクオロは石化した。
トウカは、ハクオロの胸の中で眠っていた。泣き疲れたのか、そのまま寝てしまったようだ。
だがそれは誤解を解くべき人物がいないということである。
「ま、待て、エルルゥ、本当に誤解だ! 信じてくれ!」
「……ハクオロさんは、夜中に相談に来た女の子を抱きしめるんですね」
「そ、それは―――」
万事休す。ハクオロは世界が崩れ去る音を聞いた気がした。
「―――問答無用!」
――――――その日。
ハクオロの禁裏からは数刻に渡って騒音が鳴り響いた。
しばらくしてその音は収まったが、その晩は誰一人、禁裏に近づこうとする者はいなかった。
元凶を知る者は例外なく、誰もが夜闇からの飛び火に怯えた。
―――月と、それを見張り台から眺めながら酒を飲む女性を除いて。