青葉の匂いが香り、わたしの鼻をくすぐる。
 
 
 頬を優しく撫でるように風が吹きぬけ、空から燦々と降り注ぐ日光が、ぽかぽかとまどろむ様な温もりで体を包み込む。
 
 
 それと同じようにわたしの体に熱を伝えてくれているのは、体を預けているムックルの暖かさでしょうか。弾力があって、お部屋のお布団で感じるのとは違った感触です。
 
 
 わたしがこうして外に出て行けるようになったのは、アルちゃん達のおかげ。
 
 
 何度もお外に出たい、と言っていたのに、お兄さまは御願いを聴いてくれませんでした。わたしは体が弱いから、お兄さまがとっても心配してくれるのはよく分かります。
 
 
 だから、とっても心惜しかったけれど、お兄さまを心配させたく無かったから我慢していました。
 
 
 時々お部屋の外から聞こえてくる小鳥のさえずりや楽しそうな笑い声。お外がどんなに楽しいところなのか、お部屋に篭っていたわたしは毎日そんな想像を膨らませて暮らしていたのです。
 
 
 わたしが知っている世界はとっても小さかった。ドリィとグラァは時々お外で見たものや、街で聴いた噂話を教えてくれます。
 
 
 それでも、やっぱりわたしが肌で感じられない世界は、とても遠いものでした。
 
 
 お部屋での生活に不便を感じたことはありません。お兄さまたちはみんなとっても優しくて、時々聞かせてくれるお話も面白かったです。
 
 
 でも、ある日聞かせてくれたお話を聞いてから、一つだけ欲しいものがありました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「……あの、お兄さま」
 
 
 「ん? なんだいユズハ」
 
 
 「一つだけ、お聞きしたいことがあるのですが……」
 
 
 「ああ、いいとも。分かることなら何でも答えてあげるよ」
 
 
 
 今日はお兄さまがお話を読み聞かせてくれました。
 
 
 お話は遠い遠い國のお話で、小さな男の子と女の子が仲良く暮らしていました。そのお話を聞いている最中から、わたしの中には一つだけ分からないことがあったのです。
 
 
 
 「あの、お兄さま―――お友だちって、なんですか?」
 
 
 「……え?」
 
 
 尋ねたお兄さまは何だか困ったような声をあげて、そのままうろたえているみたい。
 
 
 お話の中で何度も出てきた言葉は“二人は仲良しのお友だち”。―――お友だちって、なんなのでしょうか?
 
 
 うんうんとしばらく唸っていたお兄さまが、ようやく喋ってくれました。
 
 
 
 「……そう、お友だちっていうのは、いつも一緒に居たいと思える仲良しの人を言うんだ」
 
 
 「お友達……それじゃあ、お兄さまはユズハのお友だちですか?」
 
 
 
 うっ、とまた言葉に詰まって、お兄さまは唸り始めます。
 
 
 お兄さまはいつもユズハに優しくしてくれます。時々融通が利かないときもあるけれど、わたしが一番一緒にいたいのは、お兄さまです。
 
 
 
 「い、いやな、ユズハ。お兄さまはお兄さまだから、お友だちにはなれないんだ」
 
 
 「……? それでは、ドリィとグラァはお友達ですか?」
 
 
 「あー……、まぁ、確かにその方が近いかもしれないけれどな、二人はユズハにとって家族だろう? 家族はお友達にはなれないんだよ」
 
 
 
 ……やっぱり、よく分かりません。
 
 
 家族ではない人で、知っている人―――お外に出たことが無いわたしには、そんな人がほとんど居ませんでした。
 
 
 
 「―――トゥスクルさまは?」
 
 
 「トゥスクル様は、ユズハの体を診てくださるお医者様だよ。お友達って言うのは……そう、もっと身近で、一緒に遊べる人のことだ」
 
 
 「ユズハは……ユズハは、お兄さま達以外に遊んでくれる人なんて知りません……」
 
 
 
 そう、わたしの世界はとってもちっぽけだったから、お友だちは一人も居なかったのです。
 
 
 たった一つだけ欲しいもの、お友だち。そのことを知ってからは、それまで以上にお兄さまにお外に出たいです、とせがむ回数が増えました。
 
 
 それはやっぱり許してくださらなかったけれど、そのことを口にするたびにお兄さまは一言だけわたしにこう言います。
 
 
 
 「いつか必ず、ユズハにも大切なお友だちが出来るさ」
 
 
 
 いつからか、わたしは会ったことも無いお友だちがどんな人なのか、想像するようになりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そして、あの日が訪れたのです。
 
 
 いつものように、夜にトゥスクルさまが着てくれました。トゥスクルさまはいつも、夜遅いから寝ていてもいいんだよ、と優しく言ってくださるけれど、ユズハはトゥスクルさまとお話するのがとっても楽しみだったから、診察してくださる前の日に一杯お昼寝をしておきます。
 
 
 そんな待ち遠しかった日に、今までと違ったことがあったのです。
 
 
 それは、とても大きくて優しい、土の香りがする人。わたしはずっと寝たきりだったけれど、雨の日に時折香りたつ土の匂いが大好きでした。
 
 
 そんな匂いを持った人が、初めてわたしのお部屋に来てくださったんです。
 
 
 「それは、自分のことかな?」
 
 
 そう言った声はお兄さまよりも低くて、とっても大人みたいな声をしていたけれど、不思議と怖さは無くて、逆に全てを包んでくれそうな優しさを感じました。
 
 
 初めてのお客さまは、わたしに色々なお話をして下さいました。
 
 
 素敵な時間はあっという間に過ぎてしまって、お客さま―――ハクオロさまはトゥスクルさまとお帰りになることに。わたしはとっても悲しかったけれど、一つだけ思いついたことがありました。
 
 
 昔、お兄さまに本を読み聞かせてもらった時に出てきたおまじない。
 
 
 お互いの髪の毛を巻きつけた小指を絡ませて、再会の約束をする。その後、わたしは興奮してなかなか寝付けませんでした。
 
 
 ハクオロさまがお話してくれたことは、わたしにとってとても新鮮で、知らないことばかりでした。何より、ハクオロさまのお話の中にはたくさんの人が出てきます。
 
 
エルルゥさま、アルルゥさま。親ッさん、とハクオロさまが言う人はとっても面白い方で、その奥様のソポクさま。トゥスクルさまの住んでいらっしゃる集落は、本当に色々な人が居て、それが驚きでした。
 
 
 だって、そのお話に出てきた人だけで、それまでわたしの世界で全てだった人が倍に増えたんですから。それは、ユズハにとって一番の嬉しいことでした。
 
 
 そして、ハクオロさま。
 
 
 ユズハにとって、初めてのお客さまは、初めての家族以外の他人で、それは『お友だち』になれる初めての人、という事です。
 
 
 その日から、わたしの世界は急激に広くなりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 アルちゃん、カミュち。
 
 
 二人は、ユズハに本当の意味で始めて出来た『お友だち』でした。
 
 
 わたしにとって初めての『あだ名』を付けてくれて、あれだけ待ち望んでいたお外へも、二人とお友だちになってからはあっさりと出来るようになります。
 
 
 いつも、一緒に居たいと思えるお友だち。ユズハにとっての二人は、間違いなく最高のお友だちで、きっといつまでも仲良くできると思います。
 
 
 知らない世界、事、物、人。
 
 
 ユズハは目が見えないけれど、みんながそれがどれだけ素晴らしいことなのか、その感動を全て伝えてくれます。時々分からないことがあっても、みんなの弾んだ声を聴くだけでそれが素晴らしいことなんだ、と実感できました。
 
 
 それに―――わたしは確かに目が見えないけれど、それ以上に体全体で世界と触れ合うことが出来る。
 
 
 
 
 
 命の鼓動を、喜びを、悲しみを聞き取る耳。
 
 
 その造詣をもって世界を直接確かめられる手。
 
 
 様々な発見と同時に、どこでも変わることの無い懐かしさを感じ取る鼻。
 
 
 何よりも、その感動を分かち合う言葉を発することが出来る口。
 
 
 
 
 
 それがあるから、お友だちと一緒に笑うことも、泣くことも出来ます。
 
 
 かけがえの無い、大切なお友だち。
 
 
 それはきっと、あの日のハクオロさまとの出会いが運んでくれた、最高の贈り物だったと、ユズハは思うのです。
 
 
 
 
 
 わたしには、新しい目標が出来ました。
 
 
 お友だちが欲しいと祈り続けて、あの日の出会いが叶えてくれた願い。
 
 
 今度は、ユズハが自分で考えて、欲しいものをしっかりと口に出して言いたいと思います。
 
 
 それに、もしその御願いが叶ったら、きっとアルちゃんとももっと一緒にいられるようになると思います。……本当に実現したら、わたしとアルちゃんは『お友だち』じゃなくなってしまうかもしれないけれど、ずっと一緒にいられることには変わりありません。
 
 
 わたしはそっと手を伸ばします。
 
 
 傍らには、同じようにして横たわるアルちゃんとカミュち。指先はカミュちの翼に触れました。アルちゃんは、その翼を「黒くて、でかい」と言いましたが、とても柔らかくって、気持ち良いさわり心地。
 
 
 きっとその向こうにいるアルちゃんの、ハクオロさまに似て土の匂いの中に、少し甘い香りがするのは蜂蜜の匂い。
 
 
 こうして、三人で仲良くお昼寝が出来る時間は、ずっと続いていくはずです。
 
 
 きっと、その時間を一番初めに壊してしまうのは、ユズハだと思います。エルルゥさまが毎日わたしの体を診てくださって、確かに日に日に体が良くなっている感じがしました。
 
 
 だけど、胸の奥のどこかで、わたしは一つの予感を感じていました。
 
 
 この幸せな時間にも、終わりが来る、と。
 
 
 だけどユズハは諦めません。たとえいつか終わりが訪れるとしても、今を精一杯生きて、精一杯楽しみます。
 
 
 そして、ユズハが生きていたという証を残したいのです。
 
 
 それはユズハにとって一番の夢。
 
 
 
 
 
 ―――ハクオロさま。
 
 
 わたしは『お友だち』を作ったけれど、まだ一つ、知らないことがあります。
 
 
 わたしは―――ハクオロさまの、お嫁さんになりたいです。
 
 
 ユズハに、『お嫁さん』というものがどんなものなのか、教えてください。それはきっと、ハクオロさまにしか御願いできないことですし、……ユズハは、ハクオロさまの、お嫁さんになりたいのですから。
 
 
 それは、きっとユズハがする一番の我が侭で、一番の目標で……一番の、夢です。