木漏れ日の漏れる道を走る。

 およそ一日も揺られていたせいだろうか、この馬車の揺れにも慣れてきた。

 相変わらず走っている道すら定かではないが、手綱を握るカルラの様子ではそれも正しい順路を進んでいるのだろう。

 こうも平和なのでは、私がする事など何一つとしてない。

 それはトウカも同様なのか、視線を転じるとそこには先刻購入した人形に興じる姿がある。

 口元を緩ませながら髪を梳く。よほど機嫌が良いのだろう。滅多に聴けるものではないが、鼻歌を口ずさんでいる。

 その仕草を見ると、買った方も気分が良い。



 この旅に来てよかった、と素直に思う。

 きっかけにこそ問題があったが、それさえ割り切ってしまえば良い転機だった。ここ数日はシケリペチムとの戦いの余波も収まり通常の政務に復帰したが、戦争中その多忙さ故に手が回らなかった事が多く、休日返上で働いていた。

 肉体的には兎も角、精神的に追い詰められてきた時期でのこの旅行。気分転換としてはちょうど良い。

 一つ気がかりなことがあるとすれば、今もなお手付かずの仕事が溜まっていく現状だが、疲労によって参っている状態ではそのはかどりも牛歩の如し。少し早めの休暇を取ったと考えれば良いだけのことだ。

 なに、所詮私が何を言ってもこの馬車は先を行く。ならば今この瞬間を楽しまなければ損だろう。何よりこうして遠路遥々旅をする今では、そのようなことを考えること自体無粋というものだ。



 「あと、もう少しといった所ですわね」



 彼女も今この瞬間を謳歌しているのだろう。心なしかその声が弾んでいるように聞こえる。



 「そういえば、カルラはそこに行ったことがあるのか? どうやらここまでの道を知っていたようだが」



 「ええ。昔に、ですけど」



 口元を小さく緩めて、カルラは懐かしい思い出を振り返る。それはきっと、彼女にとってとても尊いものなのだろう。遠くを見るように向けられた視線。その瞳は優しい光を携える。

 それは何時、と尋ねようとして慌てて口を閉ざした。

 カルラの過去は明るいものではない。以前のナ・トゥンクでの一件が無ければ、彼女は生涯そのことを語らなかったはずだ。そっと、その胸に想いを抱き、過去に縛られて生きていくはずだった。

 過去の呪縛から解き放たれた今も、彼女は過去を好き好んで話さない。それを口にすることが禁忌だとでもいうように頑なな心で語ることを拒む。

私は時にこう思うことがあるのだ。即ち、私は彼女の鎖を打ち砕いていないのではないか、と。

 表面上には明るく振舞い、ようやく新しい一歩が踏み出せる状況にあっても、彼女の心は誰にも見えない鎖に囚われたままなのではないか。蜘蛛の糸はそう容易く破れるものではないのだ。

 一度掴んだ獲物を逃すまいと、例えその渦中から逃げおおせても、体に付着した糸は絡みつくように離れない。

 まさに私の懸念は其処に在ったのだ。



 ―――だが、どうだろう。

 私はカルラの横顔をじっと眺めた。

 そこにある笑顔は、きっと産まれたままの彼女の感情ではないだろうか。

 少なくとも、私の記憶にある限りでは、彼女の本当の笑顔を見たのはナ・トゥンクの剣奴開放事件、その終幕の時が最初で最後だったように思える。

 夕日に照らされながら、國を去り行く弟の後姿を思い浮かべた優しい微笑み。

 きっと、カルラが回想する過去は幸せな原風景に違いない。まだ世界を知る程成長していない程幼い頃。きっと、彼女は今と同じくこの道を通ったのではないだろうか。こうして揺れに身を任せ、隣に座る大切な家族の手を握り。

 そんな、透明な記憶を想っているときに、それを掘り起こすのは野暮だろう。

 だから私にはこう答えることしか出来ない。



 「―――そうか」



 「あの頃も、ちょうど今と同じ時期。こうして良い天気で、木漏れ日がポカポカと暖かくって―――」



 「楽しそうな、いい思い出だな」



 「ええ、とっても」



 短いやり取り。それでもカルラの表情は、言葉以上に雄弁に、その心を語っていた。

 こうして。ゆっくりとでもカルラが過去を振り切れればきっと。

 きっといつでも皆と同じように、本当の笑顔で接することが出来るかもしれない。その時には、思い出話を肴に一杯盃を交わそう。

 ―――最も、私もそうした類の話が出来るように、過去を思い出せればいいのだが。

 そうすればきっと、もっと楽しい場になるに違いない。










 馬車は道を行く。

 何処までも続く一本道は一体何処に行き着くのか。

 その先に何があるのかは、想像も付かない。

 だからこそ終着は楽しみなものなのだろう。未だ見ぬ遠き地に思いを馳せ、想像を膨らませて楽しむ。時には仲間と語り合い、その始めとして確かな一歩を踏み出す。

 それは人生と少し似ている。終わりがいつなのか、どういった場所なのか。それを知ることは出来ないが、それを考えたり、夢を持ったりすることは誰にも阻害されない自由の権利だ。

 ゴールは遠い。それでも人は留まることを知らず、その道を歩いていくのだ。その道は時に真っ直ぐ、時に幾重の分岐にも分かれ、起伏もあれば天に照らされ、雨に濡れることもある。

 人が笑えるのはきっと、旅路に待ち受ける幾多の苦難を乗り越えるための手段なのだ。

 振り返るべき過去を、私は持たない。だが、こうして笑えれば今を生きることが出来る。笑顔を持っていれば、一度は途絶えた道が再びそこから始まるのだ。



 「……私は、何を考えているのだろうな」



 感傷に浸った自己を振り返り、思わず笑ってしまう。先ほどのカルラとのやり取りの後。私はゆっくりと移ろう時を、そうした思考に費やしていた。

 カルラの過去に感化されたのだろうか。気が付けば長い時間が経過していたらしい。外を見れば、日は傾き始めている。沈む空は次第に赤みがかり、夜の帳が訪れるのもそう遠いことではないのかもしれない。

 そこではたと、気が付いた。

 思った以上に馬車に揺られている時間が長くないだろうか。進む道は以前と比べて起伏に富んでいる。さほど気にならなかった揺れも、今は大きく左右に振られることがある。

 確か今朝のカルラとのやりとりから考えれば、この旅は二泊ほどで帰京できるはずだ。なのにすでに日は傾いている。このままでは目的地に到着するまでに夜を明かすことになるだろう。

 私はカルラを見た。

 その表情は数刻前に浮かべていた笑みが想像できないほど真剣だ。それを目にするのは日常では在り得ない。私が幾度と無くこの鋭い瞳を見てきた場所は戦場だ。

 壁際に体を預けていたトウカを見れば、先ほどまでの少女の姿も掻き消え、体は瞬時のことにも対応できるように構えられている。その手には鞘に収められた刀が握られている。その双眸が睨むのは背後の虚空。

 この場を支配する緊張感に、私も異常を察知した。懐に挿してある鉄扇の柄に手を掛ける。これまで幾度と無く握り締め、戦場を駆けてきたそれはよく手に馴染む。

 糸は、いつ切れてもおかしくないほど張り詰めていた。



 「……聖上」



 「……ああ。分かった」



 トウカは横目で私を制した。

 顔を覗かせて辺りの様子を窺おうとしたのだ。トウカは慎重に歩を進め、外を覗く。

 私も気がついた。傍目には何も変わらない森が続く。だが、時折姿を見せていた小動物の姿が見えない。鳥のさえずりでさえ聞こえず、辺りにはまるで生き物の気配がしない。

 野生の動物は気配に敏感だ。常に自らの生命が危険にさらされる可能性と隣り合わせの日常に生きる彼らは、人以上に気を配らなければ生き残れない。

 道徳なんて存在しない。それがあっても生きていけるから人間が倫理を持ち合わせるだけで、大自然の摂理に従えば、究極の真理は強者が生き残る弱肉強食。

 だから、そんな彼らが逃げ出したということは、ここはこれ以上無く危険な気配に満ち溢れているということだろう。



 「……相変わらず、付かず離れずの距離ですわね」



 「数は十幾余、といったところか」



 「わざわざ人気の無いところまで来てあげたのに。とんだ度胸無しですのね」



 「仕方あるまい。どうやら戦いに慣れていないようだ。少なくとも、他國の刺客では無さそうだ」



 あまり大きくない声だが、カルラとトウカは言葉を交わす。

 此方は少人数だ。それぞれが達人であれ、戦に絶対は無い。持ちうる情報を共有することが勝敗を左右することは少なくない。二人はその実力ゆえに、冷静に戦況を分析していた。



 「あるじ様は、そのままで結構ですわ」



 「お手を煩わせることもありませぬ。某が、何があってもお守りいたしましょう」



 その声に揺らぎは無い。いつもの頼もしい二人だ。これ以上心強いことは無い。



 「二人とも、無理はするなよ」



 互いに視線は動かさず、警戒すべき箇所に監視の目を光らせる。それでも、二人は答えるように笑みを浮かべた。



 「お任せ下さい。エヴェンクルガの名に懸けて、悪漢に遅れは取りません」



 「この程度、準備運動といったところかしら。あるじ様はゆっくりしていてくださいな」



 馬車は道の途中で次第に速度を緩める。それは決して目立つような不自然さは無く、やがてその場に停車した。

 静まり返った森。その静寂が逆に耳に痛い。

 其処は森の中でもやや開けた場所だった。

 それまでの往来は道の脇に生えた木々が互いに枝を伸ばし、一部は天を覆っていた。それに比べてこの場所は、道の両側を丈の低い草が覆い、背を伸ばす木々からは離れている。

 この道を利用する人間にとっての小休止の場所なのだろうか。

 何れにせよ、この場は視界が開けている。襲撃を迎え撃つのにあたっては、この森のなかでは最善の位置であろう。

 謎の襲撃者は姿を現さない。

 それでも、その気配は私にも掴めた。先ほどまでは森の中で様子を窺っていた彼らは、確実にその包囲の輪を狭めている。彼らもこの状況で取れる最高の策を講じてくるに違いない。

 直接的に戦力が多ければ、一番有効な攻撃は純粋な物量で押すことだ。推察するに、四〜五倍の人数差がある。ならばその点を最大限活用しない手立ては無い。

 そして、その時は確実に迫っていた。



 「戦いを制するのは、機を制した者です」



 トウカが呟く。それに応じる声は無い。だが、ギリヤギナの剣士はそれに笑みをもって返す。

 その時、場を一陣の風が吹き抜けた。撫でるように木々の葉を揺らし、そして波打つように通過する。

 草木が奏でる音だけが辺りに響く。次第に引いていく音。再び訪れるであろう沈黙に、見えない緊張感が高まっていくのを肌で感じた。

 ひしひしと突き刺さるような敵意。それは間違いなくこの馬車へと向けられていて、衝突はもはや必然。

 その端を切るであろうタイミングも感じ取れる。

 全ては僅かに数瞬の後。避けられぬ戦いが口火を切る。

 その僅かな時を、信頼できる仲間と共有するために、私は交互に二人を見た。

 彼女たちは共に一瞬、しかし全く同時に私を見て、微かに笑みを浮かべる。



 そして、




 ―――場を支配する緊張感が弾けるその僅かに前、二人は示し合わせたかのように車外へと飛び出した。