―――それは、文字通り弾け飛んだというのに相応しい。
静止した世界が急速にその流れを取り戻すかのように、視界に認識される景色は流線の如く端へと流れていく。
自らの持てる最短の刻で最高速に乗る。一足で駆ける距離は長く、その躍動を生み出す脚力は日夜行われる過酷な鍛錬の中で培われた努力の結晶だ。刻苦研鑽の果てに練り上げられた体は、急な動作にも対応する。それは限界まで思考と行動との時差を突き詰めた成果だ。
そうした積み重ねこそが、エヴェンクルガ族が真に三國最強と誉れ高く謳われる要因だろう。
確かに戦いにおける技術は先祖から伝わったものも多い。生まれた時から己に武士たることを課し、義に忠ずるために正義を信奉し、背負うものを守るために強くあろうと誓う。
エヴェンクルガとしての己を形作るものは、その多くが生まれたときから見て育った環境に大きな影響を受けている。だが、今の自分を支えているものは、決して周囲に左右された結果ではない。
うち立てた目標に向かって努力し、ただ只管邁進した結果が、今の自分。ここに至る過程全てが己の血肉となり、理想の追求を後押しする。
その想いは、このような相手に閉ざされる程度の柔な感情ではない。それは、決して折れることの無い誓いで、所謂信念というものだ。
馬車から飛び出ると、そのままもと来た道を遡るように駆ける。疾走を始めるその手には共に戦場を生き抜いてきた愛刀を捧げ持つ。
その速度が最高点に達した瞬間、幾数の人影が四方から躍り出た。その表情は皆一様に驚きを張り付かせている。虚を突かれた彼らは一瞬その足を止めてしまった。
これは此方の作戦勝ちだ。
全ての勝負には、その端となる点が存在する。全ての発端となるその堰が破れることで、互いに勝負を掛ける瞬間が生まれる。物事には何事にも緒端というものが存在するのだ。
相手は同時に襲撃をかける、その数瞬前に獲物である我々が飛び出したのだ。その気勢は削がれ、勝機を生み出す瞬間は転じて彼ら自身の脆さを曝け出す結果につながる。
―――どうやら、間違いない。
ようやく事態を認識した敵が慌てて手に構えた鉄刀を構えるが、既に手遅れだ。
「―――ッハ!」
相手の懐に飛び込んだその瞬間、右手が握った柄に力が篭る。
裂帛の気合と共に閃光の如き一撃。
美しい弧を描いて刀が舞う。予め決められた線をなぞっているかのように刃が滑った。その終着点にあるのは男の体。
一閃された刀は吸い込まれるように腹に食い込んだ。僅かに鈍い音と共に、何かを押しつぶす感触が掌に伝わる。堪らず男の口から呻き声が漏れた。
「―――っがはッ」
「許せ。大人しく寝ていろ」
呟いて叩き込んだ刀を引き、衝撃で屈みこんだ男の延髄に手刀を入れる。男がその声を聞いたかは定かではないが、その返答すらする暇を与えない一瞬の出来事。
その場で姿勢を正し、一同を睥睨。威圧するように放った鋭い眼光に飲まれた男達はたじろいだ。
足元に寝転がる男を含め、目の前に立つのは五人。どうやら半数以上は馬車の正面に回っていったようだ。そちらには自分と同等、いやそれ以上の使い手が待ち構えている。心配する必要は無い。今は無心に、目の前の敵にのみ対処しよう。
だが、一連のやり取りとそれに対する反応は、戦前の予想を裏付ける結果となった。
どうやら、相手は素人だ。
油断無く正眼に構え、己の頭脳に入った情報を解析。最も確率の高いであろう分析結果を咀嚼するように脳内で展開した。
初めに彼らの存在に気がついたのは馬車を走らせてすぐ。
それまでは遠巻きに着いてくるだけだったのでさほど気に掛けてはいなかったのだが、ひとつ前の峠を越えた辺りで彼らは展開し、広範囲に渡る円陣形でこの馬車を包囲し始めた。
だが、その気配の消し方はあまりに稚拙。常に突かず離れずの距離を保ちながら、相手にそれと気がつかせるような視線を送るのは素人の業だ。
何よりも、実際に刀を交えてみれば、その反応は到底訓練を受けた兵とは思えない。わずかに虚を突かれた程度で足を止め、味方がやられても此方を囲む訳でも逃げる訳でもなく、ただその場に立ち尽くしてしまった。
彼らの顔はみな一様にあどけなさが残る。未だ少年といっても過言ではない年頃の男ばかりだ。
手に持つ武器も手入れが行き届いていないものばかりで、粗悪な品を使っている。何人かは農作業で使うような農具を自分で改造した槍や鎌を構えていた。
懸念していた、聖上を付け狙うような悪漢である確立は低そうだ。
峰を上にして構えた刀は、そうした相手に対応するための策。相手はその目的が知れず、その上訓練など受けたことも無いような子供だ。彼らを斬る事は出来そうに無い。
ならば骨の一、二本を対価に気絶してもらうのが一番手っ取り早い。そういう結論に行き着いた。
再び地面を強く蹴る。地面を震わす踏み込みは爆発的な初速を生む。空気を切り裂くように駆けるその目標は最も間近にいる少年。
刀を振るう目標を見定めるために視線を上げる。とはいえ力を最大限引き出すために顎は引いたままだ。鋭く射抜くような眼光で少年の顔を見上げると、互いに目があった。
そこに浮かぶ色は、純粋な恐怖。
口元には引き攣った笑みを張り付かせている。いや、それは笑みではないのかもしれない。半開きの口は何か言葉を発する為。それでも声が出ないのは、その恐怖故に声帯が凍りついたからか。
再び、手にした刀を振るう。下方から斜めに切り上げられた刀は、あたかも生物のように跳ねた。放ったのは基本的な斬撃。だが幾千、幾万と振るわれた軌道は、それ故に一つの芸術にまで昇華している。
何の小細工も無い一撃だが、身動きが取れない少年に避ける術は無い。彼もまた、ただの一撃で昏倒する。
「―――う、うわぁぁぁぁぁっ!?」
味方が二人もやられたことで、残る少年たちの凍り付いていた理性を溶かした。だがそれは、決して事態を好転させる要因には無い得ない。
初めは驚きに、そして間髪いれずに恐怖に囚われた彼らの心は、現実に解き放たれた途端に脆くも崩れ去った。
叫び声をあげ、闇雲に手にした武器を振り回し、倒れた味方に構いもせず転げるように逃げ出す。
だが、此方としてもこのまま彼らを逃す訳には行かなかった。初心者とはいえこれだけの数での襲撃をかけたのだ。万が一取り逃がして仲間に連絡を取られでもすれば、今度こそ危ういかも知れない。
そこに達人が居ない保証もなければ、彼らの集団がどれほどの数を揃えているのかも分からないのだ。
後を追うように駆け出す。実は純粋な走力では、彼らとの差はあまり無い。この体は瞬間的な速さは持っていても、男性の持つ筋持久力は持ち合わせていないからだ。だが、それでも彼らの背はあっという間に手が届くまでに近づいた。
全てを投げ打って逃げ出す彼らは焦り故に本来の速さが出せない。実戦に慣れていない者は、誰もが一度は似たような経験を体験するだろう。
鍛錬で身に付けた筈の技が出せない。何故か成功するはずの物事が失敗に終わる。突如として精神的に不安定な状態に陥る。
これらは皆、心が一つの感情に囚われていることに起因している。さらに言えば、それらの要素は皆総じて後ろ向きなものだ。
どのような戦況にあっても冷静な判断力が要求される。それを身に付けていないという事が、彼らを未熟だと判断できる最大の要因だ。
先頭を逃げる男の襟首を掴み、正面の木の幹に投げつける。
鈍い衝突音が辺りに響いた。彼らが怯んだ隙に投げつけた少年を気絶させ、残った二人の前に悠然と立ちふさがる。
これで退路は封じた。此処から先へ逃げるにはこの街道を抜けなければならない。両脇の森は暗く、またすぐに山の斜面によって出来た崖があるため逃げ切れない。結局彼らはこの街道沿いに逃げるしかない。
だが、その前方の道はこの身によって閉ざされている。こちらから逆の方向にはもう一人の達人が戦っているのだろう。彼らは此方を包囲したつもりが、逆に囲まれるという絶体絶命な状況に陥ったのだ。
「両名、おとなしく武器を捨てろ。某も無益な殺生は好まぬのだ」
エヴェンクルガは自らの敵に容赦しない。何故なら自分たちこそが義に准じており、その敵とは悪だからだ。だが、たとえ悪であろうとも目の前の少年を切り捨てようとは夢にも思わない。
彼らの身なりを見ると、総じて所々にほつれが見え、薄汚れた色をしている。その顔色も決して血色が良いとは言えない。この様な人気の無い山間部での襲撃を考えれば、彼らは何らかの理由で貧しい環境に陥り、野盗に身を窶しているのだろう。
その行為自体に容赦は許されない。それはエヴェンクルガが奉じる義に反する行為だ。当然敵として認識することは差し支え得ない。
だがここは戦場ではない。敵対することと殺すことは同意ではないのだ。嘗てクッチャ・ケッチャのオリカカン殿の話を聞き、エヴェンクルガの教えに従い聖上を逆賊と認識し、敵対したことがあった。
それが誤解から生じた誤認であったと判明し、己の行動に後悔と反省の念を抱いた。たった一つを正義と思い込む短絡的な思慮が、あのような戦争を引き起こし、何人もの両國の民が犠牲となったのだ。たとえそれがシケリペチムの謀略に掛けられてのことであろうと、この手で数多くの人を切り捨てたことに違いは無い。
だからこそ、大切なことは四方の意見を聞くことだと学んだ。
それが敵対する立場の者であろうとも、その意見を聞くことは決して無意味にはならないはずだ。戦場においては考えられないことだが、ここは戦争が起きているわけではない。彼らを気絶させて捕らえる。それから話を聞いても遅くは無いだろう。
残るは、二人。
互いに顔を見合わせ、怯えと緊張の表情を浮かべながらその場に立ち尽くしている。
それに相対する形で、刀を油断無く構えて待ち受ける。
だが、おそらく此方の思惑に乗ってくることは無いだろう。脱出できない袋小路の状態で圧倒的な実力差を目の当たりにした人間が採る行動は二種類。
一つはその差に愕然とし、恐怖から腰が抜けてその場に縫い付けられたように動けなくなる。そしてもう一つは、恐怖に急き立てられるように飛び掛かる、だ。
前者であればすでに体がすくんで動けないはずだ。それでも尚襲い掛かってこないのは、純粋に理性が残っているのかはたまた何としても生きて帰らなければならない理由があるのか。
戦いに理由を持つ者は強い。それは戦闘能力のことではなく、生に対する執着が人一倍強いということに他ならないからだ。執着は時として信じられないほど強さを持ち、人を生へと導く。彼らもまた、その覚悟を決めようとしているのだろう。
生き残るために、一度は命を賭けるという人生最大の賭博に。
此方には決して殺そうという気はない。だが、それを相手に口で伝えても信じてはくれないだろう。その主張を裏付ける証拠など、持ち合わせていないのだから。
彼らにとって、襲撃をかけたという事実は変わらない。ならばそれに失敗したとき、それ相応の罰をうけることになる。それがどの程度の罰かは知らないが、彼らはそれをとても重いものだと認識している。
「―――ウオォォォォォッ!」
二人は同時に地面を蹴った。
彼らがとった道は挟撃。彼らが取る手段としては最善の策だろう。戦いにおいて最も有効な策は、人海作戦なのだから。
だが、それは同時に最も予想しやすい策でもある。それに動じることも無く、刀を正面に構えたまま双方を見据える。
落ち着いて双方を一瞥した後、体を左へと蹴りだした。互いに駆け寄っての一撃は、一方的に攻められる以上に勝機が多い。まして、挟撃されることを受け入れるよりは、一対一の状況を作り出した方が俄然有利だ。
振りかぶられる刀。威力の大きな一撃ではあるが、それは当たればの問題だ。
自分以上の実力者を相手にするときは、小技に徹して相手の隙を窺うことが鉄則。その隙を突かずに大降りを放てば、それは逆に自らの隙をさらけ出すことに等しい。
疾走する体を屈め、滑り込むように大地を踏みしめる。
振り下ろしに対して下から迎え撃つ形。常識で考えれば膂力に振り下ろしの重みが加わるのだから、この体勢は不利。だが、それにも構わず素早く刀を振るう!
ガキッ、と鈍い音が響いた。金属の打ち合った音ではない。不意の事に男は戸惑いの表情を浮かべる。その手に先ほどまで握られていた武器の姿は見えない。
研ぎ澄まされた一撃は、振り下ろされる瞬間相手の柄尻に放たれたのだ。
力任せの一撃に、わずかな面積に対しての突き上げる力。互いに反発する力は強い。それに男の握力は耐え切れず、刀を弾かれた。
天を穿つ姿勢から、止まらずに追撃へと移行する。伸びた体を捻る様に刀を振り下ろし、回転。その捻りと遠心力を加えた一撃をがら空きの胴に叩き込む。
流れる一撃に為すすべなく男は倒れこむ。
残るは一人。
だが、最後の男は今の僅かな時間の間に接近している。その足は既に大地を蹴り、今にも斬りかかる寸前。
「―――クッ!」
間に合わない!
咄嗟の判断で、真横に飛び退る。
風音が耳に届き、髪を揺らす。間一髪、掠るか否かの位置で回避に成功する。もしかしたら髪の数本は持っていかれたかもしれないが、命に比べれば安いものだ。
男の攻撃は止まらない。これを好機と見たのか、回避からの体勢が整わない内に横なぎでの追撃。正面を突いた一撃を刀で受け止める。
金属音と同時に火花が飛んだ。
不規則な連打音が続く。相手はがむしゃらに刀を振るう。それを受けるのは容易だが、細かく振るわれる連続攻撃に反撃の手を打てない。
刀とは本来打ち合うために作られたものではない。それは切り裂くという行為のみを特化し作り上げられた一種の芸術。切れ味鋭く、どんなものでも一刀両断できることが持ち味だ。
それ故に細くたたき上げられた刀身は強度に不安が残る。名刀ともいえる相棒だが、その特性による一抹の不安は拭えない。
ここは一つ強引に誘い手に出るのが得策か。
次の瞬間、視界が上下にぶれる。
片足の膝が折れるように下がったのだ。体勢を崩し、相手の攻撃を防いでいた刀が一瞬下がる。
刀が下がったことで頭部の防護が甘くなる。男は嬉々として唐竹割の一撃を放った。
「―――甘い!」
それに呼応するように、一瞬下げた柄を思い切り上へと跳ね上げた。
全力で放たれた一撃は、刀身に沿うようにして受け流される。予想外のことに、男の体勢はよろめいた。すかさず右手を柄から放し、鋭く抉る様な一撃を剥き出しの顎に叩き込む。
力の篭った一撃は脳を揺らし、平衡感覚を失いかけた男はたたらを踏んで尻餅を搗く。
「これ以上の抵抗は無駄だ。……それくらい、分かるだろう?」
喉元に切っ先を突きつける。揺れ動く世界のなかで、頷くことさえ困難だが、男は観念したように手に握り締めていた刀を放した。
ふぅ、とため息が漏れた。勝敗を決し、徐々に場に張り詰めていた緊張感が緩んでいく。
身動きが取れない男を中心に、気絶した仲間を引き寄せると、手にしていた刀を鞘に収めた。
目的は達した。
彼らは程度の差はあれ皆軽傷だ。しばらくすれば目を覚ますだろうが、武器を取り押さえてしまえばさしたる脅威も無い。
一息ついて、馬車の方を見やる。
此方と正反対、前方に飛び出したのは自分以上の力を持ったギリヤギナの剣士だ。大事は無いだろうが、一体どうなったのだろうか。
急いで彼らを一箇所に纏めると、この場を離れられないもどかしさに苛まれながらも、馬車の向こうへと視線を向けた。