大地を揺るがす衝撃音。
その勢いは地表の砂を粉塵として舞い上げ、地に深い傷跡を残す。砂塵は視界を遮るほど立ち上り、眼前に展開する数人の敵の動きを止めた。
―――いや、それが彼らの歩みを止めたのではない。その驚きが無意識のうちに彼らの足を地に縛り付けた。
爆発のような破砕音は鼓膜を振動させ、今なお痺れを伝えてくる。
「あら、どうしましたの?」
濛々と立ち上る煙の中から、ゆっくりとその姿を現す。ゆっくりと歩を進める。気が付けば男達はじりじりと後退していた。ただ不適な笑みを浮かべて近づいてくるだけなのに、威圧感を感じるのだ。
数で言えば圧倒的に有利。完全に包囲している形だ。にも関わらず、あたかも狙われる獲物のような緊張感に支配される。気がつけば、背筋を汗が伝う。
「先に襲い掛かってきたのはそちらでしょうに」
カルラは包囲陣の真ん中に立ち止まり、周囲を一瞥する。その切れ長の瞳に睨まれた瞬間、体が竦みそうになった。
その様子を見て、カルラは肩に掛けていた大刀を地面に突き立てる。その外観から違和感を覚えるほど軽々と扱われていた大刀だが、その切っ先が地面に触れた途端重い音が響いた。
突き立てた刀は自重で僅かに沈み込む。それほどの重量をあの細腕で扱っているのだ。
「―――仕方ありませんわね。手加減してあげますわ」
そう言って拳を構える。
だが、誰一人として動く者は居ない。傍目に見れば武器を持っている男達が有利。だが、先ほどの示威行為により、皆萎縮してしまった。
唯の一振りで大地を抉り、離れた距離まで風圧で発生した風の断層を届かせる。尋常ではない出来事を目の前で実践し、さらにそれが現実であることを裏付けるようにくっきりと地面に爪痕を残し、さらに動かぬ証拠として、カルラの身の丈を超える大刀を軽々と扱っていた。
それを見せられれば、カルラがどれ程の強さなのかは一目瞭然であった。
一斉に襲い掛かっても勝てないだろう。武器と素手は、その溝を埋める手助けにもならない。ましてや一人で挑んで勝てるはずが無い。
さらにはその威圧感に皆足を釘付けにされ、逃げ出すこともままならない。逃走を始めても、仮に後を終われては決して生きて逃れることはできないだろう。
獅子に睨まれた草食動物。その差は言葉以上に大きい。
「来ないのでしたら、こちらから行きますわよ」
そして次の瞬間、捉えていたカルラの姿が視界から掻き消えた。鋭く大地を踏みしめる音が響いたかと思えば、数瞬も間を挟むことなく包囲していた男の一人が吹き飛ばされていた。
何が起きたのか、想像も出来なかった。
その場に見えるのは、先ほどまで仲間が居た場所に腰を深く落とし、掌底を突き出すカルラと、その場所からかなり離れた場所で倒れこんでいる男の姿。
誰もがその姿に注視していたにもかかわらず姿を見失う速さ。大の男を軽々と吹き飛ばす力。そのどれもが剣術の腕に劣ることは無い。
まさに、戦いの申し子、と。いや、戦の女神と呼称したほうが良いだろうか。
喩えどのような戦闘にあっても、如何なる状況、如何なる行動を取るべきかを熟知する戦いの女神。
それはやはり剣術と同等の力で体術も習得している。
吹き飛ばされた男を確認すると、それまで動けなかったことが嘘のようで、まるで金縛りが解けたかのように足が外へと向いている。
その行動が生命本能を動かしたのか。
気がつけば転ぶことにもかまわず、無様に森へと敗走した。
だがそれは同時に賭けでもある。
後ろを振り返る余裕は無い。だがおそらく仲間も同時に逃げ出しているだろう。それ故誰かは逃れることが出来るはずだ。
だが、残りの者はどうか。あの怪物を相手に全員が逃げ切れる保証はない。追われたら最後、捕らえられた瞬間に生きては居ないだろう。
後ろを振り返る余裕があれば前を向いて走る。
其処に化け物が居たとしても、最後の瞬間までそれと知ることは無い。恐怖に急き立てられるまま、先へ先へとかけ続けた。
「……まったく、人を化け物みたいに。失礼ですわね」
幾分不満そうに腕を組み、蜘蛛の子を散らすように男達が逃げ出した森を眺めて呟く。
どうやら彼らを追う気は無いようだ。襲撃されたのは此方であって、必要が無い以上深追いもしない。それは当然の選択だ。
「まぁ、いいじゃないか。怪我もないのだろう?」
「あるじ様も。ご自分の命が危ない所でしたのに、どうして平然としていられるのかしら」
それは当然、カルラやトウカの腕を信頼しているからだ。
それは信頼というよりも確信に近かったかもしれない。数々の激戦を潜り抜けてきた一騎当千の猛者が、野盗に遅れを取るとは考えられなかった。
その力は、たかが五、六の戦力差さで覆るものではない。
「それにしても―――困りましたわね」
「何がだ? 皆無事なのだから問題は無いだろう」
「別に殺そうなんて考えていませんでしたけれど、逃してしまいましたわ。次は間違いなく、もっと多くの仲間を連れてくるでしょうし」
ため息を吐く音が此処まで届く。確かにさらに多くの援軍を連れてこられては、その対処に骨が折れる。
「ならば早く此処から離れよう。今ならば十分逃げられるはずだ」
「……そう簡単にいけばよいのですけれど」
カルラは体と水平に片手を伸ばし、指をさす。その方向には森と、大きな岩。
「隠れてないででてらっしゃい。気配が隠しきれて居ませんわ」
沈黙が続く。先ほどまでの密度の濃い敵意に隠れていたのか気がつかなかったが、確かに其処には人の気配が感じられる。
しばしの後、観念したかのように岩陰から現れたのは、遠めにもそれと判る少年。
まだ年は十を過ぎた程度か。まだ年端も行かぬ、と表現が似合う少年は、背丈もアルルゥと大差ない。
だが、その手には不釣合いなほど大きな刀が握られていた。その切っ先は微かに震え、目標を捕らえていないが、確かにその視線の先には私の姿がある。
その瞳を見て、私は何とも言えない悲しみに包まれる。その瞳が宿すのは、とても深い悲しみの色だ。青水晶のように綺麗な双眸は人を傷つける決意と、その恐ろしさを自覚しながらもそれをしなければならないという絶望的な意思を伝える。
つい数刻前に見た少年たちの姿が思い浮かぶ。
平和な街で、希望に満ちた表情を浮かべてはしゃぐその姿に皇としての責任を感じたあの時。だがどうだろう。その少年と同じ時を生きる少年が、刃物を手に野盗まがいの行為に手を染めようとしているのだ。
トゥスクルさんの死後、これ以上の悲しみを生み出さない為に始めた戦争は、皇となってから民を守るための行為に変わった。そこに共通する想いは平和へのものだった。
そして今まで私は出来る限りの知恵を振り絞り、皆が幸せになれるようにと考えながら生きてきたのだ。
にも関わらず、これまでの努力は彼を救えなかったのだ。
私は一体、どうしたらいいのか。このような少年が現実にいる以上、これまでの最善の努力は実を結ばなかったことになる。
皆が幸せになる為にはどうしたらいいのか。何が少年をこのような行為をするところまで貶めているのか。私はそれが知りたかった。
「―――カルラ」
「……っ、ですが」
だから私は、少年に歩み寄ろうとしたカルラを制止した。
私がその答えを知るためには、彼の、いや彼の仲間であろう先ほどの男達の思いをこの身で受けなければならない。
真実を知るためには、それを身をもって知る以外にないだろう。
私は無言のまま、帯に挿していた鉄扇を抜き、開く。
そのまま静かに腰を落とし、構えた。体は少年にまっすぐと向いている。
私は、全てを受け止めてみせよう。
「う……うぁぁぁぁぁぁッ!!」
少年は自らの恐怖を吹き消すかのように大声で叫び、駆け寄ってきた。
その足元は刀の重さから覚束ない。先ほどまで私を向いていた切っ先は既に地面を擦り、地表に乱れた直線を描く。
だが、それでも彼はその足を止めることなく真っ直ぐ此方に走る。
その全力を受けるために、私はぐっと大地を踏みしめ、鉄扇を前へと差し出した―――。
「これは一体―――」
辺りに響く金属音。硬い金属が衝突し、重なる音が既に日の沈み、浮かんだ月が照らす世界を支配する。
捕らえた敵を逃がさぬように縛った後、急いで戻ってきた場所に広がっていたのは、聖上と見知らぬ少年が戦う光景。それは何とも不釣合いで、しかし共に真剣な表情で刃を振るう。
上から下へ、右から左へと銀光が走る。それに合わせるように、聖上が愛用の鉄扇で弾き、流し、或いは躱す。
それは戦いとも表現できないものであったが、何故か干渉することが躊躇われた。
「もう、しばらく続けてますのよ」
声のしたほうを向くと、カルラ殿が馬車に身を預けて彼らの行為を見つめていた。
「一体、何があったのだ?」
「さあ。私にも分かりませんわ」
男の子、なんでしょう。とだけ言って、それから一言も発さずただ眼前の光景を眺めている。
何一つ分からない以上、それに習ってみるしかない。困惑しながらも、目の前で繰り広げられる剣戟を眺めた。
聖上に向かって刀を振るい続ける少年は、確かに男の子という年齢だ。
エヴェンクルガの里では彼よりももっと幼い頃から刀に触れ、その感触に馴染んでいる。幼い少年が刀を振るう姿なんて、正直に言えば見慣れているのだ。
だが、少年から感じるのはその身に不相応な俗世的な思い。大人への憧れや強さへの信望ではなく、大人である事を受け入れなければならなかった悲しみだ。
子供が振るえるような小太刀や短刀ではなく、彼が持つのは大人用の刀だ。本来ならば子供が振るうことはおろか、持つこともままならない代物。
それを少年は、執念だけで振るっていた。何度も何度も、幾度跳ね返されても諦めることなく。
聖上がそれを止めないのは、その思いの丈を受け入れるためか。答えるように振るわれる軌跡は、そのどれもが少年の太刀裁きに相対するもの。
跳ね返すことは容易い。また同時に、少年の行動を止めることも用意だ。
それでも、聖上はその戦いに終止符を打とうとはしなかった。どれだけの時間をそうして過ごすのか、見当も付かない。出来ることは、ただ待つことだけだ。
「―――どうした、もう終わりなのか?」
どれだけの間そうしていたのか分からない。ただ明らかなのはこうして私が立っているという事実と、息も絶え絶えに地に膝を屈する少年がその目で睨んでいるという現実。
少年から返事は無い。あれだけ重量のある刀を絶え間なく振るい続けた結果として、彼は一人で立つこともままならない。その身の丈はあろうかという刀に体を預け、私の瞳を射抜くように睨んでいる。
視界にはカルラとトウカの二人が入っているが、彼女たちは一度たりともこの間に入るようなことをしなかった。今もまたその通りで、ただ黙ってこの行く末を見守っている。
少年の口からは荒い息遣いが続いていた。
だが、彼はその中で必死に言葉を紡ごうとしている。大きく開いていた口が幾度か痙攣するように震えた。
「、……れない」
「……」
「……っ、こんなことで、俺は負けられないんだッ」
私はそれを見て素直に驚いた。
少年は明らかに自分の限界を超えて刀を振るっていた。もう一歩も歩けないだろうと高を括っていたのだが、その予想を裏切って彼は立ち上がった。
傍らに突き立てていた刀を再度握り、自分の足で大地に立つ。そのまま先ほどまでと同じようにその切っ先を私へと向けた。いつ倒れてもおかしくない、そんな状況にもかかわらず襤褸切れのような足を引きずって一歩一歩近寄ってくる。
彼は今、その気力だけで保っている。気丈に振舞ってはいるが、おそらく少しでも気を抜けばその場に崩れ落ちてしまうだろう。
それでもなお挑み続ける彼の姿に、あの年でそれだけの覚悟を背負う必要があったその重さを知った。
私は戦争の無い世界を作りたい。それはすなわち、国同士ばかりかより小さな範疇でもそうで、平たく言うならば争い自体が存在しない楽園が理想だ。
例えそれが決して叶わない夢物語だと分かっていても、それを諦めることは出来ない。
だから今、私に全力でぶつかってきた少年の思いはよく分かった。私にとっての理想と同様、彼にも譲れない何かが存在する。其処に年齢などという野暮なものが入り込む隙間も無い。
正面からぶつかり合い、その強さが本物であると知っている。
それを受け止めた今、私に出来ることはその想いを引き継ぐことだ。
「……今は少し、眠っているんだ」
微妙な力加減で振るった鉄扇。物を叩き割るほどの威力ではない。それでも、その力は少年の意識を刈り取るには十分すぎた。
微かに呻き声を漏らして倒れこむ。私はその小さな体をしっかりと正面から抱きとめる。
気を失っているが、先程まで凄い剣幕を張っていた顔は今、年相応の素顔を晒している。ほっそりと痩せているが、それでも顔が子供特有の丸みを帯びている。
寝顔は誰もがいい表情だというが、この表情を見た私は心が痛んだ。
何故このような子供までもが、どうして武器を手にしなければならないのか。
戦争をしている訳ではなく、ましてや憎しみ合う仲でもない。
接点が無いはずの両者が、どうして刃を交えることになるのだろう。この少年を駆り立てるものは何なのか。
どうやらこのたびは、当初の目的程軽いものには終わらないようだ。
腕に抱いた少年を見遣り、私は心に一つの決意をする。
―――私はこの目で、この國で何が起きているのか確かめなければならない。
玉座に腰を下ろしていては分からないこともあるだろう。私は常に國の為を思って執政してきた。だが、思うだけではいけないのだ。
この瞳で実際に見ることでしか分からないこともあるはずだ。そこに、皇としてあるべき姿を見つけられるかもしれない。
私は馬車へと歩み寄る。
カルラとトウカ、二人は私の信頼に応えてくれた。
彼女たちは自らを危険に晒してまで、私を守ってくれた。ならば皇として成長することでその礼としたい。
どうやら温泉旅行は後回しになりそうだ。私はまず、この少年が武器を手にするその理由を知らなければならない。
少年を馬車に寝かし、その横に並ぶように横たわる。
すでに夜の帳に包まれた空には大きな月が浮かんでいる。上弦の月は微笑むように大地を見下していた。
見守られるようにして、今はしばしの小休止を―――。