月夜の誓約





















 私は日頃の習慣通り、脇に挿した刀を取り上げた。



 おもむろにその内の一本を鞘から抜き、目の前に翳す。月光を浴びる刀身は、無数の傷を負っていた。



 数え切れないほどの戦場を共に駆け抜けた戦友は、私にとっては分身そのもの。その傷は武士にとって武勲であり、誇りだ。



 丁寧に汚れをふき取り、手垢が着かないよう細心の注意を払って収める。



 故郷を旅立つ餞別として父上から譲り受けた一振りは、義を重んじる武士として、エヴェンクルガの血族としての、その証だ。英雄として誉れ高く謳われるゲンジマル殿のようになるという、誓いの象徴。



 そして―――。



 もう一振りの刀。私はそれを胸に擁く。夜風で冷えるはずの刀は、しかし私の胸で温もりを放つ。



 真新しい一振りを抱えたまま、私はあの時と同じ月が浮かぶ夜へと思いを馳せた。







   『月夜の誓約』










 戦場で出会った彼に抱いたのは、純粋な怒りだった。



 自らの家族を手にかけた卑劣漢。エヴェンクルガの誇りを汚す彼は、私にとっては敵対すべき象徴的な存在だ。



 憎むべき彼との衝突。その戦いの末、私は敗れた。



 地下に幽閉されて初めての対面。徹底的な抵抗を考える私の考えは揺らがない。待ち受けているであろう拷問に耐え抜き、必ずや『悪』を打倒する―――。



 だが、私の決意が実行される事は無かった。



 突如として決まった解放、そして知らされた真実。



 私は自らの『罪』を悟り、恐れた。私が戦場で切り捨てた命。『悪』とした男への憎悪。それらが虚構であったと知ったとき、私はその重みに押し潰されそうになった。



 数え切れない『無実の』命を奪った私は、その無実の命の数だけ『罪』を背負っている。それを一人で抱えることなど―――私には出来なかった。



 死を以って償う、それも考えた。だが、それは現実から目を逸らしての逃避―――エヴェンクルガの矜持がそれを許さない。



 だからこそ、私が選んだ道は、彼らが命を賭して守ろうとしたその想いを、私が受け継ぐこと。



 死を覚悟しての嘆願。一度は刃を向けた相手に仕えるという願いは、受け入れられた。それも、想像以上の待遇で。その日初めて正面から向き合った双眸は、暖かく包み込むような優しい光を携えていた。









 私は宛がわれた自室で月を見上げる。



 蒼白い光が差し込む室内は、城内でも上等な造りをしている。数日前、彼は敵であった私を躊躇う事無く引き入れた。それも、かなりの待遇で。最初は彼が何故そのように振舞えるのか分からなかった。



 しかし。この数日という時間は、私に彼の性質を悟らせるには十分な時間だった。



 有体に言えば、彼はお人よしなのだ。一國の皇たるもの、自国に不利益をこうむった者には非常であるべきだ。にも関わらず、彼は私に優しかった。



 刃を向けた相手に気遣い、自國の民を殺した私に笑いかけ、ねぎらいの言葉を掛ける。そのたびに、私は自らの『罪』を自覚させられるのだ。



 決して消えることの無い傷跡を抉る様な微笑によって。





 「某は―――誓いを守れているのだろうか」





 自らの業を認め背負った、死に逝く者へ捧げた誓約。彼らの夢を、私が引き継ぐという誓い。



 見上げた月がそれに答えるはずも無い。私は自嘲の笑みを浮かべ―――





 「―――何か、悩みでもあるのか?」





 突如として掛けられた言葉に驚き、背後を振り返る。





 「せ、聖上―――」





 「何度も声を掛けたのだが、返事がなかったのでな」





 勝手に入って済まなかった、と頭を下げる聖上。





 「どうか、なさいましたか」





 「いや―――少し、酒に付き合ってもらえないか」





 その手にぶら下げられた陶器の器。揺すられると水音が跳ねた。





 「エルルゥは飲むのを止めるし、カルラとでは酔う前に潰されてしまうのでな。頼めるのがトウカしかいないんだ」





 怒ったエルルゥ殿の顔が脳裏に過ぎり、自然と笑みが零れる。





 「はっ―――お相手させて頂きます」





 「……相変わらず堅いな」





 聖上は酒を注いだ杯を差し出した。私も飲まずにはいられない。

 ―――貴方の傍に居ることは、これ程までに私の心を苦しめるのだから。









 酒盛りは続く。月を肴にした宴に、言葉は必要なかった。互いに無言のまま、杯をあかしては新たに注ぐ。





 「綺麗だ」





 確かに。今宵の月はまるで天に浮かぶ珠玉の宝石。



 夜が更けるのも気にならない。いつまでも眺めていたい、そんな気になる。



 気がつけば城内の明かりはほとんど落とされている。夏も近い中、吹き付ける風と静かに鳴く虫の声が、体を包んで涼しさを感じた。





 「聖上は―――」





 酒に酔ったのか、はたまたこの幻想的な雰囲気がそう促したのか。私の口が、勝手に言葉をつむぎ始めた。





 「聖上は、私が憎くないのですか?」





 「―――何故、そう思う?」





 聖上の表情は変わらない。ただ、月を見上げていた顔をこちらに向けて、次の言葉を待っている。





 「某は、―――私は、貴方の民を殺した」





 ふと、気がつけば虫は鳴くのを止めていた。世界が静まり返る。私の呟くような声が、吸い込まれるように夜闇に吸い込まれる。





 「あの戦いで、貴方は大切な人を失った。―――実際に私がその場に居たわけではない。それでも、貴方にとって私は憎むべき敵ではないのですか?」





 私の問いは―――いや、私の叫びは、目の前にいる彼に向けられる。





 長い、長い沈黙の後、彼は再度月を見上げた。私も釣られてそちらを見上げる。





 「彼らは、」





 ポツリと。彼の口から言葉が紡がれる。





 「親父さんにソポクさん、他にも里の皆。彼らは、私にとって家族のようなものだった」





 口調に負の感情は感じ取れない。むしろ、懐かしさを覚える響きを含んでいた。





 「大怪我をして、記憶も無い私を、彼らは迎え入れてくれた。そこでの生活は、私にとって家族とのそれと同意だった」





 そこで、一度言葉は切れた。私は横を向けない。彼が、今どのような表情をしているのか―――それを知るのが怖かった。





 「―――あの戦いは、悲劇だった。私はあの戦いで、家族をほとんど失った」






 ずしりと、私の胸に何かが圧し掛かる重みを感じた。私の、『罪』の重み。





 「―――そこで、私は知ったのだ。家族を、大切な人を失う悲しみを」





 その言葉の重みを、私は感じ取った。気がつけば、私は顔を俯けていた。その重みに、耐えられなかったのだろうか。





 「だからこそ。これ以上、このような悲しみを繰り返してはならないのだ」





 すっと、隣で彼が動いた。私は恐る恐るそちらに顔をむける。





 「トウカは、悪くない。確かにトウカは私の民を殺した。だが、それは自らの信念に従う強さを利用されただけだろう」





 彼は、―――皇は、私に向き直って姿勢を正していた。そのまま手を床に着き―――





 「せ、聖上!」





 「頼む。これ以上、悲しむ者を出さないためにも―――その力を、私に貸して欲しいのだ」





 一國の皇が下げる頭。自身の誇りが傷つこうとも、信念を曲げることなく向き合える強さ。



 ―――気がつけば、私の頬を、涙が伝っていた。





 「―――某の、命に賭けましても。必ずや、この力をお役に立てましょう」





 視界がにじむ。



 ああ、そうか。



 私は、許されたかったのだ。この胸の苦しみから解放されたかったのだ。



 聖上は、こんな私の力を必要としてくれた。



 このような人に仕えたい。心底そう思う。



 彼のその想いは、私が求めていた強さを秘めている。このような主に仕えて、この力を役立てたい。



 私があふれる涙をこらえる間、聖上はしばし席を立った。



 再び戻ってきたその手に握られているのは、一振りの刀。





 「―――これは、トウカの為に鍛えた刀だ」





 そういって刀を差し出す聖上。



 私は手にしたそれを抜き放つ。



 月明かりに照らされた刀は銀色の光を放つ。人を殺める為の刀をしかし、何故か暖かいと思った。





 「エヴェンクルガの武士よ―――貴女の力を、私の理想の為に貸して欲しい」





 再度の問い。私に、迷いは存在しない。






 「はっ―――この刀と、月に誓って」














 空に浮かぶ満月。



 あの夜の誓いは私の胸に深く刻み込まれている。



 遠い昔のような気も、つい先程のことだったようにも感じられる。



 ただ、変わらないのはその想い。



 未だ戦場で抜かれたことの無い刀を抱き、私は自問した。





 「某は―――誓いを守れているのだろうか」





 嘗ての様な迷いは無い。私が背負った『罪』への誓い。それは新たなる誓いへと受け継がれ、今なお私の中で息づいている。



 誓約を果たすためにも、私は彼の下でその力を振るおう。



 ―――この、胸の温もりを忘れないように。