荒涼とした大地。
そこは各地を転々とする商人たちが利用することはあっても、整備された道ではない。
夜の帳が訪れれば、人も寄り付かない荒野である。
その大地を見渡せる、小高い丘の上。
自分の身の丈を超える大きさの岩に腰を掛け、頭上に輝く月を見上げた。
夜となれば辺りは冷える。
仰々しい装い故に、重ねられた布が包む体を冷やすことは無かった。
とはいえ、吐く息は白い靄となり、霧散する。
だが、そんな事など気にも掛からない。
夜の世界に君臨する輝かしき皇の姿は、それだけで心を楽しませる。
気が付けば、そんな行動が日課となっていた。
アムルリネウルカ・クーヤ。
それが幼き皇の名であり、そして全てを体現している。
大国クンネカムンの指針をその小さな一身に託される少女。
そこに、『クーヤ』という個人の意思は存在しない。
否、存在することさえも許されなかった。
クンネカムンは、その国力に反して脆弱な一面を持っている。
それはシャクコポル族が他國から孤立している、ということに起因していた。
そもそもはシャクコポル族が、オンカミヤムカイの奉るウィツアルネミテアと異なる、オンヴィタイカヤンを信奉していることがきっかけだ。
其々の神は相反する存在。
それは、たったそれだけの事実であり、それ以上の意味を持っていた。
それ故に、ノセチェシカやヌンバニのような國に攻め込む隙を窺われている。
これは公になっていることではないが、公然の秘密であろう。
単一民族による集権国家。
かつて弱者であったシャクコポルが、安息の地として得た國がクンネカムン。
だからこそ、その國は決して失われては為らない基盤であり、クーヤの双肩に圧し掛かる重責もまた増えていく。
対外的には強気に出ることが求められ、不利に働くであろうこの幼い容姿を隠すために顔を覆うことを求められる。
そんなシャクコポル族が得た、神々の遺産―――アヴ・カムゥ。
当然のように彼らはそれを利用し、最強の『矛』として賛辞を惜しまない。
それを、幼いクーヤは疑問に思うことがあった。
自身が偽装をさせられる事に異議は無い。
背負う責務も苦ではない。
そのための皇であり、自身もそうあることを望んでいる。
だが―――アヴ・カムゥの存在意義に関してだけは、心の奥では何か煮え切らないものを感じた。
なぜ、アヴ・カムゥは『矛』であらねばならないのか。
望んでいるのは侵略では無く、何人たりとも侵せざる平和であるはずなのに。
なぜ、―――『最強の盾』であることが出来ないのだろうか。
望むのは、ただの平穏なのに。
皆は言う。
―――アヴ・カムゥは神に選ばれし我々が授かった正義の鉄槌だ。
―――この平和を恒久的なものにするためにも、禍根を断つべきだ。
―――われらの『力』で世界を統一し、真なる平和を追求するべきだ。
そのどれもが、クーヤには空虚なものに感じられた。
クンネカムンは三大強國と呼ばれるまでに成長している。
その一角であったシケリペチムも崩壊し、クンネカムンを脅かす勢力はノセチェシカのみ。
正直に言えば、その程度、ものの数日で制圧できる。
それは自負ではなく、これ以上無い事実。
あの圧倒的なまでの力を前にしては、如何なる大群も水泡と化す。
ならば、そう躍起になって武力を翳し、勇まなくとも良いのではないか。
我らは嘗て、その力に虐げられるものの気持ちを知ったのではなかったのか。
それを自分が手に入れたからといって、弱者に振るうことが許されようか。
クーヤはそれを肯定できない。
だが残念なことに―――。
クーヤは、その意思を持つことを望まれていなかった。
少女に課せられた使命は名君として手腕を発揮することではない。
クンネカムンの皇として、その総意を実現することだ。
故に、そこに個人の意思が介在してはならない。
國内の気運は侵略という方向で高まっている。
ならば、『クンネカムン皇』として下すべき判断は一つ。
それはおそらく、避けようの無い運命なのだろう。
運命に抗うには、その体は小さすぎる。
『クンネカムン皇』の使命は、達成されるべくして生れているのだ。
ならば―――。
この、確かに存在する『クーヤ』は、一体何のために生れたのか。
その答えは、未だに見つかっていない。
見上げる月は優しい光を放ち、同時に何人にも干渉することの無い無慈悲さを示す。
あの気高き姿は、一体何のために存在しているのか。
月明かりを放ち、人々に恩恵を与える夜の皇。
そこにも、個人の意思というものが存在するのだろうか。
その疑問に、答えるものは、無い。
懊悩する一人の少女。
その存在は望まれざるもので、それでも確かにそこにある。
存在するものに意味が無いものは無い。
そう考える少女に、ある日一筋の光が差し込んだ。
きっかけは何ということも無い。
クンネカムンより遥か東方に、新たな國が誕生した、との知らせを受けたことだった。
普段ならばそう気に留めることも無かっただろう。
だが、クンネカムンの存在を脅かす最大の敵、シケリペチムの老皇が、その國の皇に興味を持っていると聞いて、私の気は惹かれた。
それははじめ、皇としての思いが先に立ったのだろう。
如何に小国とはいえ、仮にこの身を脅かされることがありえるならば、その芽は早めに摘むべきだ、と。
だが同時に、個人としての私も興味を持っていた。
前身となった國は、酷いものだったと聞く。
民を統べるはずの皇が民を虐げるような地に、望まれて立った皇。
その存在は、個人としての存在が認められて皇となったのだ。
ならば、この私にも、皇としての個人の在り方を示してくれるかもしれない。
そう考えたのだ。
私が心を許せる数少ない者の一人、ゲンジマルに彼との接触を試みる事を相談したときは、頑なに反対された。
だが、私も一歩も退けない。
そこに『私』の答えがあるかもしれないのだから。
これまでに無いほど強硬な私に根負けしたのか、ゲンジマルの同行を条件にその國―――トゥスクルを訪れた。
それが昨日の事のように思い出される。
これは果たして何度めの逢瀬か。
その度に、決まって私はこの場所に一人待たされ、そして月を見上げているのだ。
彼の前で、私は仮面をつける必要が無い。
何故なら、彼は私を『クーヤ』と呼ぶからだ。
どうしてクンネカムン皇の顔を被る必要があるのだろうか。
今か今かと逸る私の心。
「―――余は、幸せだ」
嘗ての私では信じられないほどに、世界が色づいて見える。
信頼できるゲンジマル、サクヤ。
そこに加わった新しい名は、私が知らない世界を次々と広げていく。
これ以上の幸せがあるだろうか。
この幸せがある以上。
私は、皇としての決断を踏みとどまろうと思う。
何故なら―――それは、『クーヤ』が信じた世界を否定するには、あまりに軽率な気がしたから。
だから今しばらく、許される限りに永く―――。
アムルリネウルカ・クーヤは、『余』である自分よりも、『私』としての自分でありたい。