朝、目を覚ますと妙な違和感を覚えた。何かがおかしい。だが、それが何であるのかは理解できない。せっかく普段と比べて早く起きられたというのに、こんな暗惨な気持ちでは清々しさなんて遠く彼方へと消え去ってしまった。
 
 
 原因はさっぱりだ。寝起きだからまだ体が覚醒していないのだろうか。寝ぼけ眼を擦るようにして起き上がり、窓から覗く外の景色に目をやる。
 
 
 朝はまだ空けたばかりだ。普段ならこの時間は一日の激務に備えて夢の世界で休息を取っている頃。そんな時間帯だから、一望できる眼下の世界に人影はまばらだ。夜通し城内を見回り、警護している者は、そろそろ交代で眠りに着くことだろう。ご苦労なことだ。
 
 
 手摺に近づいて大きく深呼吸。新鮮な空気を肺一杯に満たす。ようやく意識が覚醒してきたところだが、それと同時に頭をチクリとした鋭い痛みが襲った。
 
 
 頭を抑えてその場に蹲る。針で突付かれるような痛みに、昨夜のことを回想する。
 
 
 昨晩、一日の仕事を終えたハクオロはカルラに出くわした。欄干に身を預けるようにして月を眺める彼女は、手招きしてハクオロを隣に座らせた。傍らには既に酌に付き合わされたのだろう、オボロとクロウが死んだように眠っていた。一応口元に手をかざすと、小さく呼吸をしていたので、命の心配はしなくてもよさそうだ。
 
 
 それでも、大の大人を二人も酔い潰しておきながら平然としていられるカルラの酒への耐性は驚きに値するが。
 
 
 半ば強制的な形で晩酌に付き合わされたのだが、月見酒は月が美しい程酒も進む。初めは飲みすぎないように自制していたのだが、会話が弾むに連れて酒の進みも速くなる。その後どうしたのか記憶は定かではないのだが、こうして自室で眠りについていたのだから、あの後無事に禁裏に戻って眠ったのだろう。記憶をなくすほど前後不覚に飲んでいたにもかかわらず、きちんと布団を被っていたほどだから、さして心配することも無いかもしれない。
 
 
 きっと、先ほどから感じる違和感の正体も飲みすぎから生じた二日酔いだろう。記憶を無くすほど酔っ払った記憶は過去に無いのだが、オボロのように絡み酒の上にそのまま眠ってしまうほど酒癖は悪くないのかもしれない。
 
 
 それだけ深く眠っていたからか、床についた時間は普段と大して変わらないと思うのだが、この頭に残る痛みを除けば体調は悪くない。どちらかといえば、いつも以上に体が軽い位だ。だが、どうにもこの痛みは差支えがあるように思う。
 
 
 痛む頭を抑えながら、ふらふらとした足取りで部屋を後にする。水のみ場で冷たい水を口に含めば、きっとこの二日酔いも緩和されるはずだ。そのついでに顔も洗ってしまえば、すっきりとした気持ちで一日を迎えられるに違いない。
 
 
 禁裏を出て少し歩けば、そこに共用の水のみ場となっている水溜がある。普段は誰かしらの姿がある場所だが、今日は普段と違う時間帯からなのか、ここに来るまでの道のりを含めて誰一人とも出会うことなくたどり着いた。水は大きな甕一杯に満たされている。大地から直接汲み上げた井戸の水は、透明感に溢れて新鮮さに満ち満ちていた。
 
 
 水甕に着くと、両手で作った柄杓を水で満たす。ひんやりとした冷たさに、手を痺れるような感覚が駆け抜けた。そのまま叩きつけるように顔にぶつけると、脳内に燻っていた眠気が吹き飛んでいく。
 
 
 そのまま、喉を潤そうと脇に並べて置かれている木製の柄杓を手に取り、ふと、水甕を覗き込んだ。
 
 
 澄んだ水面は、山間から顔を覗かせた太陽に照らされ綺麗に輝きを反射させる。その水鏡に映し出されたのは、見慣れているはずの仮面に包まれた顔。そして、肩から先に伸びている長く艶のある黒髪。
 
 
 
 
 
 「……は?」
 
 
 
 
 
 一瞬、何が何だか分からなくなった。想像だにしていなかったものを見た気がするのだが、まだ意識が覚醒していないのだろうか。古典的な確かめ方ではあるが、自分で自分の頬をつねってみた。……当然、痛い。
 
 
 再度水鏡を覗き込もうとすると、絹のような滑らかさを持って、肩にかかっていた黒髪が一房流れ落ち、着水する。そこを中心に起きる波紋。黒髪の端が水面に浸り、浮かんでいる。鏡に映った右頬は、抓った跡が赤く腫れている。
 
 
 驚きから現実を認識できず、無意識のうちにその髪を鷲摑み、目一杯引っ張ってみた。
 
 
 頭皮から抜け落ちてしまいそうな痛み。いたずらで被せられたかつらなら、引っ張って痛みが生じることなど無いだろう。よく見てみると、その長さは腰丈にまで達している。どれだけ代謝が活性化しようとも、一晩でこれほど髪が伸びることなど考えられない。
 
 
 異変はそればかりではなかった。混乱の極みにあった私の意識に追い討ちをかけるように、それらの事実が明らかになる。
 
 
 意識がはっきりしたところで再度水面を見てみると、顔の細部にもわずかな違いが起きていた。遠目から観てもそれと分かる仮面はそのままだ。それが外れているようなことがあれば、十分に気がつくことが出来る。変化が起きていたのは、その他外に露出している部位。
 
 
 最も顕著なのは、顎だ。男らしく角のあった顎は、若干丸みを帯びていて優しげだ。それに合わせるように、唇もやや小さく、それでいて瑞々しい。鼻は小さく整った形で、心なしか仮面の奥から覗く瞳も、細目ながら睫毛が長く伸びている。一概に言ってしまえば、その顔つきは女性らしく変化していた。そう、たった一晩で。
 
 
 普段見えている部分が少ないため、わずかな違いも大きな印象の違いになって現れる。人間の骨格は確かに変化していくが、ここまでの劇的な変化は成長と言うよりも進化と呼ぶことが相応しい。空白の一晩に何があったのか。
 
 
 ハクオロは静かに二、三歩下がった。そのままそっと、強く脈動する心臓に手を当てる。
 
 
 ふにょん。
 
 
 何か、やわらかい感触が手に残る。視線を転じれば、普段見えるはずのつま先が見えない。その障害となっているのは、普段見慣れない二つの流曲線を描く山。
 
 
 「……これは、え!?」
 
 
 思わずうめき声を上げて、自分の耳を疑う。普段聞きなれている自分の低い声ではなかった。まるで他人が喋っているかのように、落ち着いたアルトの声がハクオロの言葉を発したのだ。探るように手を当てる。そこには咽喉にあるはずのでっぱりは感じられない。
 
 
 次の瞬間、ハクオロは踵を返し、太陽に向き直る。昇ってきたばかりの陽は、山間から半分顔を覗かせていた。ここは城の中でも高い位置にある。その手摺から身を乗り出して、大声で叫ぶ。
 
 
 
 「な、なんじゃこりゃあぁぁぁぁっっ!?」
 
 
 
 叫びは山々を木霊して、折り重なるように辺りに響き渡る。それは、心からの嘆きだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
      或る女皇の憂鬱
 
 
 
 
 
 
 
 
 自室に勢いよく駆け戻って、勢いそのままに飛び込む。途中にあった階段は二段飛ばしで駆け上がった。
 
 
 周囲の視線など気にする余裕もなかった。否、仮に周囲に目撃されていたとすれば大問題だ。一夜明けると、皇の性別が変わっていました。……そんな事を言われたとしても、信じるものがいるだろうか?
 
 
 少なくとも私は信じないだろう。何せ、これまで私が学んできた『常識』には、一度生まれついた性別が一夜にして変わるなんて、聞いたことも無い話だ。それが人為的に行われた行為ならともかく、私自身が知らぬ間に行われるなんて、在り得ない。
 
 
 ハクオロは動転する思考を纏めようと、冷静に振舞った。自己の常識と照らし合わせ、いかにそれが現実的にありえないことなのか、その論拠を列挙して片っ端から否定していく。
 
 
 それでもハクオロには、これはきっと夢なんだ、などという逃避的思考を巡らすことなど出来なかった。
 
 
 いかに否定しようとも、覆せない事実が目の前に提示されているのだ。それを幻だと言って一笑に付すことなど出来ようか。
 
 
 常識を、理性を打ち崩さんとする現物を、ハクオロは情けない顔で見下ろした。眼下に見下ろす双丘。ハクオロが着ている着物を押し上げるように聳えるソレを、無遠慮に鷲摑む。
 
 
 なんとも言えない柔軟さ、それに加えて弾力をもって指を跳ね返す感触。胸の奥がムズムズする妙な感覚が電流のように体中を駆け巡る。そんな現実的な感想を体験して、どうやってコレを否定すればいいのだろうか。
 
 
 そう、間違いなくハクオロの胸には女性の象徴たる膨らみが確かに存在し、自らの体の一部であることを誇示するかの如く触感が働いている。紛れも無く、それはハクオロの体であった。
 
 
 部屋の片隅には、ため息を吐いて肩を落とすハクオロの姿を映し出す、大きな姿見。この國では珍しい品物だが、一國の皇が人前に出る時に身だしなみを気にしない訳にはいかないでしょう、と言われてベナウィに半ば強制的な形で持たされている。
 
 
 日ごろから磨き上げられている鏡面は、一点の曇りも無くハクオロの肢体を映し出す。
 
 
 丸みを帯びた女性らしい体つき。どちらかと言えば細身なはずの体は、一部が自己主張を控えることなく存在しているため、見た目から凛とした表情を想像しづらい。何より、その顔つきまで多少なりとも変化があるようだ。男から女の体に変貌を遂げるということは、それ程までに大きな変化を伴うということなのだろう。
 
 
 ……よく目を凝らしてみると、心なしか仮面の形も変わって見える。男の顔ではないため、そこだけが角ばった異様として目立っているが、それでも少しばかり仮面にも変化があるような気がする。その最大の違いは、瞳の露出だ。かつては切れ長の瞳を除かせる細長い切れ目が存在していただけだが、今その仮面は、おそらく顔の中でも最大の変化を引き起こしたと思われる大きな瞳を見せられるほどにまで変化していた。
 
 
 基となる身長も高いが、生まれたてながら理想の完成図に近い肢体を持ち合わせる。
 
 
 にもかかわらず、今のハクオロから魅力を感じないのは、どれだけ現実を突きつけられようとも信じようとしないその姿勢と、そこから生じる脱力感がその魅力を阻害しているからだろう。
 
 
 
 「しかし、一体どうしたらいいんだ……」
 
 
 
 鏡の中のハクオロが、その場にしゃがみこんで頭を掻き毟る。
 
 
 現実をいくら嘆いたところで何か転機が訪れる訳ではない。それでも前を向くことは、非常に難しいことだ。精神的に、自らの性別転換を受け入れられる者がどれだけいるのだろう。
 
 
 なにより問題なのは、それにどれだけの時間を費やしたところでその現実を受け入れられる見込みが無いことと、今後の生活という、最大の難関が目の前に立ちふさがっていることだ。
 
 
 ハクオロが頭を悩ませるべき事は、今後当然訪れる日常生活への影響だった。
 
 
 皆に説明したところで信じてもらえるとは限らない。その上下手をすれば、禁裏に忍び込み、皇の姿を隠した不審者として捕まる可能性も否定できない。寧ろ、そうなってしまう確率のほうが高いだろう。
 
 
 そんな壁を前に、頭を抱えるハクオロ。
 
 
 しかし、ハクオロは失念していた。日常とはそこにあるものではなく、それ自体がやってくるものであるという事を。
 
 
 
 「ハクオロさーん、朝です、よ……」
 
 
 
 物音に気がついたのは、足音が階段を上りきって背後に立った瞬間、つまり手遅れな時。
 
 
 その声の主は顔を見なくとも想像できる程の間柄だ。それでも、ハクオロには今の彼女が一体どのような表情をしているのか、見当もつかなかった。
 
 
 恐る恐る首を回転させ、背後の入り口へと顔を向ける。ゆっくりと移り変わる視線の中、やがて飛び込んできたその姿は毎日目にしている着物を纏った、想像通りの人物。
 
 
 気がつけば、日は既に明け方から朝へと移り変わっていた。日々の朝議の準備を始めるために、いつも起きる時間。そして、いつも私を起こしに来るのは、エルルゥの役割だ。
 
 
 エルルゥは入り口で固まったまま、身じろぎ一つしなかった。目の前に存在する世界が時を止めてしまったかのように、彼女はその視線を一点―――つまりハクオロに注いでいる。
 
 
 しばし訪れた静寂。
 
 
 そして、決壊。
 
 
 
 「――――――キャアアアアアァァァァッッ!?」
 
 
 
 朝。
 
 その日二度目の叫びが城内から発せられ、木霊に乗って山々へと吸い込まれて、消えた。