朝。
 
 
 いつものようにハクオロさんの部屋を訪れる。ハクオロさんを起こすのは、ヤマユラの里にいた頃からの日課です。
 
 
 だからそれは特別な何かではないけれど、私にとっては、ハクオロさんが皇になったとしても、私の家族であることに変わりは無いと教えてくれる大切な出来事だ。
 
 
 だからどんなに朝が早いときでも、ハクオロさんのお部屋を訪れることは、心躍る楽しみな行事の一つです。
 
 
 今日もいつものように階段を登る。男性が登ることを考えて作ってあるから、段差が急なのは辛いけれど、そんな障害は今の私にとっては何の苦でもない。
 
 
 今日も、いつものように布団に包まるハクオロさんを揺り起こす。目覚めの瞬間に見せる無防備な笑顔は、私だけの秘密です。それを見るためなら、多少の労は障害になりません。
 
 
 さぁ、今日も一日元気に始めましょう。
 
 
 
 「ハクオロさーん、朝です、よ……」
 
 
 
 しかし。
 
 
 いつもと同じはずの朝は、想像の範疇を超えた出来事を目の当たりにして、早くも瓦解した。
 
 
 ハクオロさんの布団の上に、うずくまるようにして頭を抱える髪の長い女性。
 
 
 それを目撃した瞬間、世界は凍結するかのようにその流れを止める。その時が再び流れ始めたとき、私の口から発せられたのは現実を認識できない叫びだった。
 
 
 「――――――キャアアアアアァァァァッッ!?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「―――というわけなんだよ、エルルゥ」
 
 
 「そんなこと言っても、全く分かりません! 朝起きたら、お、女の人になってたなんて……!」
 
 
 「だが、これ以上はなんとも説明しがたいのだがな……」
 
 
 
 あれから。
 
 
 知らない間に見ず知らずの女性を連れ込んだ、とか実は既婚者だった、とか不審者が侵入してハクオロさんを隠してしまった、とか。色々な考えが同時に脳裏に思い浮かび、混乱している最中に目の前の女性が「私だ、ハクオロだ」とか言い出して混乱に拍車をかけて。
 
 
 結局、室内を物が飛び交ったり、怒声が響き渡ったりとか―――そんな紆余曲折を経て、今は落ち着いて向かい合っています。
 
 
 別に信じた訳じゃないけれど、こうでもしないと話が先に進みません。
 
 
 
 「兎に角、本当に私は私なんだ。……信じてはくれないか?」
 
 
 
 ハクオロさん(自称)は先ほどからずっとそう弁解しています。ただ、そう口で言うばかりで、自分がハクオロさんだっていう証拠を示せないでいるから、どうにも説得力がありません。それに、明確に証拠を提示されない限りは、私だって納得するつもりはありませんし。
 
 
 ……でも、何がハクオロさんだと証明する手がかりになるのかは、私にだって分からないけど。
 
 
 それに、今でこそこうやって面と向き合って話しが出来るけれど、直にそうも行かなくなる。ハクオロさんは毎朝決まって朝議を開いている。それをやらなければいけない、という決まりは無いけれど、既に慣習として皆が思い込んでいる行事を、何の前置きも無しに中止にするわけにはいきません。
 
 
 それを中止だと言えるのはハクオロさん本人で、目の前に佇んでいるハクオロさん(仮)にはその権限が無い。今のところは、だけど。
 
 
 
「私は薬師です」
 
 
 「あ、ああ、それは私もよく知っている。トゥスクルさんの見習いだった時から一緒だっただろう?」
 
 
 
 私の素性を知っていることから本人だと証明しようとしている。でも、それは調べてみれば誰だって分かること。それだけで本人だと断定することは安易すぎます。
 
 
 それに、私は目の前の人物がハクオロさんだと薄々感じていた。それは理屈で説明できるものじゃないけれど、この人は間違いなくハクオロさんだと私の心の一部が言っている。
 
 
 それでも、たとえ目の前に存在したって納得できないものはあります。まさか、一晩で女の人になってしまうなんて、目の前でその瞬間を見ない限りは信じられない。いや、信じたくありません。
 
 
 だって、ハクオロさんが、女の人になってしまったら……私は、私の気持ちはどうしたらいいんですか!
 
 
 色々な想いがぐるぐる巡って、私の頭は上手く考えが働かない。真っ白になった頭は、私を感情だけで突き動かす。理屈以上の理由で、ハクオロさんと私はつながっている。これ以上無く彼女=ハクオロさんという図式が、少なくとも私を納得させるのには十分な理由で完成しているのに、私の感情がその理解を妨げる。
 
 
 そうして、それ以上説明のしようが無くてうろたえているハクオロさんを困らせるように口が動いてしまいます。
 
 
 
 「そんな事、誰だって調べればわかります! そんなことで私を騙そうなんて、そうはいきませんからね!」
 
 
 「そ、そんな……エルルゥ、本当に私は私なんだ」
 
 
 「だからその証拠を見せてくださいって言ってるじゃないですか」
 
 
 「いや、それがあれば苦労しないのだが……」
 
 
 
 そんな風にして、会話は堂々巡り。
 
 
 不毛な会話が交わされる間にも、限られた時間は確実に流れていく。本当にそろそろ朝議の時間が迫っています。
 
 
 
 「それじゃあ、昨夜ハクオロさんは何をしていたんですか? それが分かればきっとそうなってしまった原因だって分かるはずです」
 
 
 「夕べ、か。―――実は、記憶もある程度あやふやなのだが」
 
 
 
 そう言いながらも、ハクオロさん(仮)は昨日の顛末を語りだす。
 
 
 
 「昨日は、執務が終わった後半ば強引な形で酒を飲むことになってな、この辺りは確かな記憶だ。オボロとクロウ―――いや、あいつらは初めから酔いつぶれていたか、それならカルラに聞いてもらえればきっと証明してくれる」
 
 
 「……」
 
 
 「ど、どうしたんだエルルゥ?」
 
 
 「知りません! はやく続けて下さい!」
 
 
 
 ハクオロさんは、またカルラさんのところに行っていたらしい。此処のところ、何か用事があってハクオロさんを探しているとその傍にカルラさんが一緒に居ることが多い。他にも、トウカさんとかウルトリィ様とか。ハクオロさんは、大抵綺麗な女の人と一緒にいて、私のことを見向きもしません。
 
 
 偶に気に掛けてくれれば、それは『家族』としての触れ合いであって、『エルルゥ』との時間じゃない。
 
 
……本当は、それでも『家族』としての時間があるだけで、私やアルルゥが一番ハクオロさんと一緒に過ごす時間が多いって分かっているけど、それでも私の心は複雑です。
 
 
 今だって、私のことをしっかり見てくれているからちょっとした表情の変化を読み取って声を掛けてくれたに違いありません。





―――それよりも、寂しいときに私の事を気に掛けてくれれば嬉しいのに。
 
 
 
 「そのあと、杯を交わしている内に気持ち悪くなってな、エルルゥの部屋に行ったんだ」
 
 
 「わ、私の部屋に!?」
 
 
 「ああ。―――ここからは記憶が曖昧なんだが、薬を貰いにいったんだ。だが、エルルゥの姿が見えなくてな」
 
 
 「ちょ、ちょっと湯浴みにいっていたんだと思います……」
 
 
 
 何だかんだ言って、私のほうもハクオロさんと接触する機会を失っている。最近はこうした小さなすれ違いが積み重なって、お互いあまり会えていないのかもしれません。
 
 
 
 「とりあえず、エルルゥが帰ってくるまで少し待とうと思ったのだが、ちょうど薬棚に見たことがある薬を見つけてな。それを貰って飲んでおいた。後は自室まで戻ってそのまま眠ってしまったから、記憶が曖昧なのだが―――どうした、エルルゥ?」
 
 
 
 ハクオロさんに覗き込まれるようにして声を掛けられて、私は茫然自失状態を脱した。何か、ハクオロさんの言動の中に妙な怖気を感じて、その原因を探るために頭の中でその言葉を反芻する。
 
 
 ―――見たことがある薬を見つけてな。
 
 
 ……まさか。
 
 
 まさかまさかまさか!?
 
 
 私の脳裏を過ぎったのは最悪の事態。もしかそれが的中していたら、……ハクオロさんは、一生このままの姿という事も十分考えられる。
 
 
 
 「ハ、ハクオロさん? 薬って、どんな薬でしたか?」
 
 
 「ああ、この間オボロがドリィ達と飲んでいたときにも気持ちが悪くなってエルルゥから薬をもらっていただろう?」
 
 
 
 確かに、私はオボロさんにお酒の効能を薄めるお薬を調合して渡した記憶がある。
 
 
 その時、私は薬棚に置かれていた薬壺を使いました。……嫌な予感は、次第に現実味を帯びてくる。言葉の端々から拾い集めた情報のかけらは、どうも私にとっては最悪の想定を肯定している。それも、全く楽観的な余地を残すことも無く。
 
 
 
 「確かそのときにエルルゥが薬を取り出していた薬壺を見つけてな。置いてあった場所もその時と全く同じだったからとても分かりやすかった」
 
 
 「ま、まさかそのお薬を飲んだりは……」
 
 
 「もちろん、確かに頂いた。エルルゥにも御礼を言わなくてはと思っていたのだが―――エルルゥ?」
 
 
 
 ハクオロさんの言葉尻が私の意識の端へと流れていく。気がつけば、一瞬の間に私はハクオロさんのお部屋を飛び出していました。目的地は、ついさっきまで私が眠っていた自室。
 
 
 私は、ハクオロさんの言葉で半ば確信した。同時に納得もしてしまった。……彼女は、きっとハクオロさんだ。
 
 
 駆ける私の速さは、今までの人生で記憶に無い。何度も往復して体が覚えてしまった自室からハクオロさんのお部屋までの道のり。きっと目隠しをしてもたどり着けるそれを逆行して駆け抜ける。
 
 
 途中、何人か兵隊さんとすれ違い、不思議な目で見られたけれども気にならない。
 
 
 今は、そんな体面以上に大事な問題が懸かっているんですから。私の頭が、ハクオロさんが女性になってしまったその理由は、私の想像が正しいと肯定している。それはきっと間違いのない事実で、私がしているのは単なる事実確認に過ぎないのかもしれません。
 
 
 それでも、この目で確認するまでは、一縷の望みに想いを託す以外に出来ることは無い。それなら、私は出来ることをするしかないじゃないですか。たとえそれがディネボクシリへの道のりだって、進まないと終わりは現れないんですから。
 
 
 ぐんぐんと視界の端へと流れていく景色。体全体に風を感じて、爽快感すら感じる速度。それでも私の心は疾く疾くと急かしている。
 
 
 場内に宛がわれた自室には直ぐにたどり着いた。それでも息尽く事無く室内に踏み込んで、目的のものに目を向ける。
 
 
 薬壺は私が覚えていた通りの場所にありました。あわてて駆け寄ると、身を乗り出すように中を覗き込む。暗くて中がよく見えません。
 
 
 壺を抱えて日差しが差し込む窓の傍まで歩み寄る。なんだか薬壺が軽く感じる。もともとそれ程量が入っていた訳ではないけれど、それは私に一層の不安を予感させた。
 
 
 既に壺の中は日光で照らされている。きっと少し覗き込むだけで、中の様子が分かるはず―――。
 
 
 「…………」
 
 
 恐る恐る覗き込んだ私は、そのまま硬直してしまう。
 
 
 ―――中は、ものの見事に空っぽでした。
 
 
 
 
 
 ……確かに、オボロさんにお薬を煎じたときには、この壺にはお酒を中和する効能の薬草を擂り潰して造ったものを仕舞っていました。
 
 
 でも、だからってその中身がいつまでも同じだなんて決められたら困ります。そもそも、人のものを勝手に飲んでしまうなんて想像もしていません。
 
 
 当然、この中身だって、あの時とは違う大切なお薬をしまっておきました。
 
 
 沢山の秘薬と労力を費やして、さらにかなりの時間を費やしてまで完成に漕ぎ着けたお薬。そこに至るまでに幾度もの失敗を重ねて、やっとたどり着いた境地に、あのお薬の完成があったのに……。
 
 
 私は恨めしそうに木机の上に置かれた紙片を眺めた。
 
 
 それは、数十枚の紙片を纏めて作った、世界で唯一の本。
 
 
 三國一の名医と謳われたおばあちゃんが残した、幾つかの秘薬の製造法を記した手作りの本です。
 
 
 風に吹かれて紙片がひとりでに捲られる。そこに大きな字で、お薬の名前が記されていました。
 
 
 
 
 
 『キママゥで出来る豊胸剤』
 
 
 
 
 
 ……私は一人、がっくりと肩を落としてその場に崩れ落ちた。
 
 
 朝議まであと僅か。
 
 
 治療法は―――少なくとも、この城内に知る人はいません。
 
 
 脱力してその場から動けない私は、よく晴れて澄んだ空を見上げる。どこまでも蒼く、広い空。今日のお天気は晴天。
 
 
……それでも、前途多難な今後を思うと、私の心は曇ったままでした。
 
 
 
 ごめんなさい、ハクオロさん。
 
 
 
 ……どうやら、しばらくはそのままみたいです。