のどかな一日。
 
 
 
 
 
 
 
 
 世界は何も変わらない。
 
 
 空の青さも、清浄な空気も、燦々と大地に降り注ぐ日光も。
 
 
 唯一つ違うことがあるとすれば、それは―――。
 
 
 
 
 
 「……しまった」
 
 
 
 朝。何時ものように禁裏で目を覚まし、自分の体を見下ろして一つ大きなため息を吐いた。そこには一日たっても見慣れない曲線を持った体。
 
 
 目が覚めたら、それまでの時が夢で、何もかもが元通りになっているのではないか、そんな淡い期待を抱かなかったわけではない。ないのだが、実際に現実を目の当たりにすると、覚悟の上でも少し落ち込んでしまう。
 
 
 兎に角。
 
 
 今更気にしたところで事態が好転する訳でもない。
 
 
 このことを知られて民を混乱させる訳にはいかないという配慮から、禁裏周辺の警護は皆が交代で着いてくれている。その為、私には思った以上に身の振り方に自由が与えられている。
 
 
 ……勿論、他者に姿を見られるようなことは避けなければならない。加えて、交代で見張りに付いてくれているとはいっても皆には負担が大きいだろう。見張りだけが仕事ではないし、第一それだけの長期間禁裏周辺への立ち入りを禁じては、妙な憶測を招きかねない。
 
 
 どうしようか、と考えても妙案が浮かぶ訳もなく、今頼ることが出来るのはトゥスクルさんの残した資料や昔の文献、伝承などまでひっくり返して調べてくれているエルルゥだけだ。
 
 
 気を取り直して着物を変え、顔を洗うなどして身支度を整える。
 
 
 部屋に戻って一息ついて、はて、と首をかしげた。
 
 
 ……なにか、大切な用事を忘れているような気がする。
 
 
 この姿になってから、あらゆることに弊害が生じている。
 
 
 今日だって、恒例となっていた朝議を中止した。本来書斎にて行うべき雑務を運んで貰って行い、本来口頭報告される懸案もすべて言伝て貰わなければならない。
 
 
 当然効率など話にもならないくらい低い。書斎で行っている雑務でさえ、足りないもがあれば一々取りに言って貰わなければならないし、各事務の担当者との話をするのにも必ず第三者の仲介が必要となる。
 
 
 その大半をこなしてくれたのがベナウィだが、このままでは彼も過労で倒れてしまう。
 
 
 尤も、あの侍大将なら大した苦にも思わず黙々とこなしてしまうかもしれないが。
 
 
 そんな生活を続けていたため、予定はその全てが乱れて進んでいる。
 
 
 当然それに伴う弊害も次々に広がっていき、今日に至っては終わらせなければならない仕事も溜まってきている。
 
 
 そんな中でも優先しなければならない用事とは、一体なんだったのか。
 
 
 しばし思考し、たどり着いた答え。それに対する感想が、冒頭の「……しまった」だ。
 
 
 
 「まさか……いや、どうするんだ、こんな姿のままでは―――」
 
 
 「―――おはようございます」
 
 
 
 慌てふためく私を尻目に、エルルゥがやってきた。
 
 
 頭を抱えて転げまわる私を見て不思議そうに首を傾げるが、そんな仕草もやがて小さな頷きへと変わっていった。
 
 
 ……決して、頭がおかしくなってしまったわけではないのだが、エルルゥの脳内で私はいわゆる「かわいそうな人」認定をされてしまったのだろうか。
 
 
 エルルゥは慈母の笑み―――それと、少しばかり哀れみの篭った視線―――を私に向けて、諭すように口を開く。
 
 
 
 「ハクオロさん……悲しいのはわたしにだって良く分かります。だから、思いつめたりしないで―――」
 
 
 「違う……違うんだエルルゥ。そんなことで頭を抱えているのではない。これは一大事なんだ……」
 
 
 
 そう、これは一大事だ。下手をすれば國家存亡に関わるほどの……。
 
 
 なぜ、今まで気が付かなかったのか不思議なくらい大きな問題だが、その出来事自体が今までの私にとって当たり前のことで、しかも非公式的なことだから、その事実だって私しか知らないはず。
 
 
 知らない内に、私は膝まで水に浸かっていた。それも、足場の不安定な泥沼の、である。果たして底があるのかは、不明。
 
 
 
 「一大事、って……何かあったんですか?」
 
 
 
 それまで優しい笑顔を浮かべていたエルルゥの表情が硬くなる。私の発する重苦しい空気に気が付いたのか、今度はからかうような様子を見せない。
 
 
 私は一瞬、口にするのを躊躇った。
 
 
 今ここで話したところで自体が好転する訳でもないし、第一どうにかしようにもおそらくは手遅れだろうから。
 
 
 とはいえ、真剣に私の言葉を待っているエルルゥを無碍に扱う訳にもいかない。
 
 
 話す以外の結論はないが、それでも私の口は鉛がぶら下がっているかのように堅い。
 
 
 
 「ハクオロさん……大丈夫です。わたし、どんなに大きな秘密でも必ず他言しません」
 
 
 「―――エルルゥ」
 
 
 
 エルルゥの暖かい言葉が胸に染み渡る。
 
 
 精神的に参っている今この瞬間で、そんな言葉を言われてしまっては後に引けないではないか。
 
 
 私は一呼吸分の間をおいて、その事実、口にすれば一言で済んでしまうような言葉を告げた。
 
 
 
 「これは、あくまで非公式且つ私的な目的でのことだ。そのことを踏まえて、聞いてくれ」
 
 
 「……はい」
 
 
 
 ごくりと、生唾を飲む音が響いた。緊張している私が発した音なのか、聞き逃すまいと息を潜めて私を眺めるエルルゥが発した音なのかさえ定かではないが、それが私の最後のためらいを破壊し、堤防を取り除く引き金となった。
 
 
 私の口からは、短く事実のみが伝えられる。
 
 
 
 「―――今日、クンネカムン皇が訪朝する」
 
 
 
 静寂。何らかの反応があると予想していただけに、この結末は想定外だ。
 
 
 何一言としてしゃべらないエルルゥ。その小さな口が紡ぐであろう一声を待ち構えたが、いつまで経ってもその口から声が漏れることはない。
 
 
 
 「……エルルゥ?」
 
 
 
 私はそっと、エルルゥの俯きがちな顔を覗きこんだ。
 
 
 瞬間。
 
 
 
 「―――えええええええええええええええぇぇぇぇぇっっっ!!?」
 
 
 
 劈くような悲鳴が耳元で炸裂した。
 
 
 ……そう、今日は大切な用事があったのだ。
 
 
 クンネカムン皇、アウルリネウルカ=クーヤ。三大強国と歌われる一國の幼き皇。
 
 
 彼女が非公式ながらトゥスクルに遊びに来る。
 
 
 今のこの体において、それは一大事以外の何物でもなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「なあ、ハクオロ」
 
 
 
 それは唐突にクーヤが言った一言で決まった。
 
 
 夜空の下での密会これまで幾度となく繰り返されてきた逢瀬はしかし、甘いひと時というよりも親しい親友と話しが出来る大切なひと時となりつつあった。
 
 
 この世界で数少ない、対等に話が出来る相手。勿論仲間達だって同じように対等に話ができるが、クーヤとのそれは少し異なる。同じ境遇にいるものは数少ない。その苦悩を共感できるのは、やはり皇という立場にいる同等の存在だけなのだ。
 
 
 だから私はこの逢瀬の時間を楽しみにしていたし、だからこそクーヤもこう頻繁にクンネカムンから長距離を移動してまでこの國を訪れるのだろうと思う。
 
 
 
その一言も、そんなある日の些細な言動がきっかけだった。
 
 
 
 「なんだ、クーヤ」
 
 
 「相談なのだがな、今度近いうちに、個人的にそなたの城を訪問しようと思うのだ」
 
 
 「―――それは、また突然だな」
 
 
 「済まない。勿論私だってまだ誰にも話していない。サクヤにもだぞ? サクヤはしっかり者だが、妙なところで間が抜けている。うっかり口を滑らされたら大変だからな」
 
 
 「あはは、確かにな」
 
 
 
 クーヤは言った。クンネカムンにはトゥスクル脅威論が存在するらしい。当然だろう。自分達とともに三台強國に数えられていたシケリペチムを陥落させたのだから。元々支配下に置かれていたシャクコポルの民族が独立して建国した國家がクンネカムンだ。それ故にこう思ったとしても何ら不思議ではない。
 
 
 自分達の脅威がさらに大きくなる前に、その元を断ってしまえ、と。
 
 
 
 「笑ってしまう話だ。無論、余はそのようなことを考えておらん。それよりも、逆に修好を結びたいとすら考えているのだ」
 
 
 
 そう、クーヤは月光に照らされたその横顔に透明な笑みを浮かべて語った。
 
 
 私も、クンネカムンを討とうなどという考えは微塵も持っていない。そもそもクッチャ・ケッチャにせよシケリペチムにせよ、防衛手段の最終段階として仕方がなく戦争に突入したに過ぎない。
 
 
 積極的に打って出ようなどと考えたことは過去に一度たりとも無いのだから。
 
 
 クンネカムンはシケリペチムに匹敵、もしかしたらそれ以上の力を持つ強國なのだ。
 
 
 敵対するという最悪の事態は避けたいし、それ以上に仲の良い関係を保ちたいと望んでいた。クーヤのいう國内の世論は気になれど、実権を握っているクーヤが明確な意思を持っている以上、最悪の事態に陥る可能性は限りなく低いのではないか。
 
 
 
 「それは、こちらからも御願いしたいくらいの話だ」
 
 
 「そうか、余は嬉しいぞ。……さて、それに先立って、余は自らこの眼でトゥスクルという國を見極め、國で知らしめたいのだ」
 
 
 「だから私の城を訪れたいと……だが、それなら尚更非公式に訪問する必要はないだろう?」
 
 
 「そうだが、先も述べたように國では―――極少数であれ―――トゥスクルを恐れるものもいるのだ。側近に諌められては、余も軽々しく行動を起こせなくなる。それならば一層、非公式に訪問したほうが良いだろう」
 
 
 「そんなことをしても大丈夫なのか? 重臣の意見を無視することになるのではないのか?」
 
 
 
 確かに、とクーヤは言う。
 
 
 
 「それもそうだ。だがな、ハクオロ。皇たるもの一瞬の不利益を被ろうとも将来の為に犠牲を払う覚悟は必要だ。ここでトゥスクルからの信頼を得ておけば、将来的にクンネカムンは國外の脅威を減らし、他國への牽制にもなる。その為なら、一時期嫌われる程度のことは我慢しなければならん」
 
 
 無論、嫌われて國政に影響が出るような柔な関係であればそんな決断はしないし、情勢が変わってしまえば実現しないだろうが、と付け加える。
 
 
 完敗だ。
 
 
 クーヤはその見た目同様に、実年齢も若い以上に幼い。
 
 
 そんな彼女が真剣に國を案じ、最善を尽くそうとしているのだ。
 
 
 そんな彼女を見て、私が黙っている訳にはいかない。
 
 
 「それに……余が公式に訪朝するとなれば、恐らくは國賓としての扱いに終始するであろう? 私は客としてではなく、対等に渡り合える相手として、在りのままのトゥスクルを見て見たいのだ」
 
 
 「―――分かった。それならば私もその事実を伏せておかなければならないな。どこから話が漏れるか分からない。この件は二人だけの秘密としておこう」
 
 
 「ああ。すまぬ、恩にきるぞ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そんな経緯もあって、今まで確かに私はその事実を伏せていた。当然そのことを知っているのは私ひとりであり、約束を果たしたといえるだろう。
 
 
 ―――問題は、今の今までその事実を忘れていたということだ。
 
 
 仕方が無い、という面もあるだろう。性別が突然反転してしまうなんて異常事態に直面して、まともな思考回路でいられるはずがない。それでも、今回は最悪だ。
 
 
 相手は非公式とはいえクンネカムンの皇である。
 
 
 まさか國品級の相手を前に顔を合わせないなんてできないし、さりとてこの姿で現れる訳にもいかない。
 
 
 ―――まさに、國家存亡の危機。
 
 
 
 
 
 ため息を吐いても、現実が変わる訳ではない。
 
 
 エルルゥが先程の私のように転げ回るのを尻目に、私はどうするべきか頭を働かせていた。
 
 
 何としても解決策を見出さなければならないのだ。
 
 
 ―――クーヤが現れるまでに。
 
 
 ……正直、絶望的なまでに不可能な気がするのだが。